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ヤマレコ

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2009年3月の31件の記事

駄菓子の大人買い

 川越の蔵造りの町並みの北の端にあたる札の辻近辺から少し路地を入ったところに、菓子製造業者がかたまっている一角があり、菓子屋横丁と呼ばれている。

Dagashi1

 子供のころに食べたなつかしい駄菓子を商う店もあり、のぞいてみると子供ではなく大人が、かごにいっぱい駄菓子を買い込んでいた。

 見ているうちにほしくなり、買い出すとこれもこれもと次々とかごに入れてしまう。

 かなり抑えて買ってきました。

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 で、食べてみると、駄菓子はやっぱり駄物なのですね。子供のときはあんなにおいしくて、もったいなくてちびちび食べていたのに…。

 
 

老舗と行列

 江戸時代から続くうなぎの名店、川越の小川菊で食事をすることにした。

 建物は趣のある大正時代の木造三階建てである。

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 休日の昼時であったためか満席であり、中で待っている人も大勢いた。我々は中に入れず、外で待つことに。並び始めてしばらくすると、我々の後ろにも長い列ができていた。うなぎは時間がかかるのは承知している。待つ覚悟もできている。しかし店内に入ることができたのは小一時間たってからであった。

 内部も雰囲気のある造りであり、うなぎを焼くうまそうな匂いが充満している。が、店内でもしばらく待つことになり、そのあいだ匂いをかぎつづけたためか、すっかり食べたかのような気分になってしまった。

 回転をよくしようとしたり、店舗を大きくしたりすれば、そのぶん味にシワ寄せがくるはずだ。うまいものにありつくには、待つのは致し方ないことだと思う。待つのがいやなら、そういう店はいくらでもある。こうしてどんどんと外食業は二極化していくのだろう。

 ぶらっと入ってさくっと食べれる、それでもって味は一流、そんな店があちこちにたくさんあればなぁ。

 
 

重厚な蔵造りの町

 江戸時代、川越は江戸と結ぶ新河岸川の舟運で栄え、小江戸と呼ばれた。

 小江戸ときくと軽やかなイメージがあるが、実際は重厚で威圧感のある蔵造りの町並みである。

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 仲町から札の辻にかけては、立派な蔵が立ち並ぶ。

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 江戸と同様に川越も、何度もの大火を経験し、火に強い蔵造りが取り入れられていった。

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 江戸時代から続く老舗も多い。

 
 

日暮れて道遠し

 山の彼方に日が沈み、空が濃い青に染まる。夜の帳が下りてきて、まもなく辺りは闇に包まれる。

 ここは東北地方の山の中、今日中に帰宅し、明日は会社へ出勤だ。

 気ままな暮らしを送っていた頃、心配事はその日の寝場所と食べ物だけで、どこでなにをしていようが勝手であった。ただ資金が底をつかないように気をつけていればよかった。

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 だが今は、帰る場所もあり、自分を待つ家族もあり、しなければならない仕事もある。これを不自由に思えば不満はいくらでも出てくるだろうが、時々はそういう気分になることもなくはないが、ふたつの人生を同時に送ることはできないのだから、そして今いる場所は自分の選択の結果なのだから、変えられないことに不満を持つより、現在の境遇を楽しむべきであると思うし、実際に楽しんでいる。

 それに、帰るべき場所や待っていてくれる人がいることは幸せである。食べていくのに困らない程度の収入があるのも幸せである。いまは心からそう思うし、そのことに心から感謝している。ひとりぼっちで金を数えて日々過ごすのは、ある意味自由だが、ある意味不幸である。

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 さて、ぼちぼち動き出さないと、せめて真っ暗になる前に高速道路の入口までは着いておきたい。そこからさらに数百キロの道のりが待っているのだから。

 
 

湯野上温泉郷

 湯野上温泉への入り口、会津鉄道湯野上温泉駅は茅葺屋根の駅舎である。

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 駅前は温泉街というほどまとまって宿があるわけではなかった。

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 眺めはよさそうである。

 
 

昭和の温泉街

 会津若松近郊の芦ノ牧温泉。

 時代に取り残されたかのような昭和の歓楽街の雰囲気を今に残す。

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 木造建築などの古い町並みとしての情緒があるわけでもなく、歓楽街として現代に通用する集客力があるわけでもなく、中途半端な位置のまま時を重ねているようだ。

 近隣に観光地が多いので、設備投資をしなくてもそこそこやっていけるのであろうか。

Ashinomaki2

 だが、子供のころの記憶を呼び起こすような、どこかなつかしさを感じる温泉街でもある。

 
 

ソースカツ丼

 カツ丼といえば卵とじが当然であり、それ以外は味噌をかけたものしかないと長らく信じてきたのだが、ソースカツ丼なる食物の存在を知ったときには不思議であった。

 ご飯の上にトンカツをのせてソースをかけるなら、トンカツ定食をどんぶり物にしただけではないか。それなら、しょうが焼きをご飯にのせればしょうが焼き丼だし、サンマを乗せればサンマ丼である。

 それに、揚げ物をご飯にのせてソースをちょこっとかけただけだと、ご飯とソースがぐちゃぐちゃと混じり合い絶妙の味加減になるどんぶり物の醍醐味が全く味わえないではないか。

 そんな思いから長らくソースカツ丼を敬遠してきたのだが、北関東方面に旅行中に同行者が食しているのがうまそうで、少し食べさせてもらった。するとなぜだか妙にうまいのである。ご飯とカツをいっしょに食べているだけなのだが、なぜだかうまいのである。

 単に空腹だっただけかもしれないと思い、その後も何度か試したが、やはりなぜだかうまい。最近では卵とじや味噌よりも好きになってしまった。

 ソースカツ丼地域を調べてみると、北関東や甲信越南部、東北南部と東京を包囲し、まさにいま首都圏進撃の機会をうかがっているかのようである。他にも北陸や北東北にもソースカツ丼地域は散在しているらしい。

 なぜこれらの地域では、一般的な卵とじのカツ丼でなくソースカツ丼が根付いているのか。ソースカツ丼地域間での地域差はあるのだろうか。いままでは漫然と食していたが、これらのことが気になりだし、ひとまずそれぞれの地域の代表的な店で食べ比べてみようと思う。

 会津若松では、ソースカツ丼を提供する店舗が伝統会津ソースカツ丼の会を結成している。その会の中で、昭和五年開店当時の味を守り抜いているという謳い文句に惹かれ、若松食堂へ。

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 とりあえずフタ付きでカツ丼が出てきましたが、店内ですぐに食べるのになぜ? そういう文化なのでしょうか。ご飯の上にトンカツがのっているので、厚みでフタはピッタリとは閉まっていませんでした。

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 さらっとした少々甘味のあるタレが、サッとかけてあるだけなのですが、でもなぜだかうまいのです。カツの下にはキャベツが敷いてありましたが、キャベツの有無にも地域差があるようです。

 
 

会津若松七日町

 会津若松市内七日町周辺には古い町並みが残っている。

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 ひと口に古い町並みといっても、七日町周辺には、江戸時代の造り酒屋や石造りの西洋建築、町家、蔵、看板建築と時代を超越した雑多な建築物が集まっている。

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 多くの店舗は現在も営業を続けており、観光客相手の店もあれば、地元の人向けの店舗もある。また、鉄道の線路を挟んだ東西の市街地を行き来する主要道路沿いでもあるため、人と車で溢れている。古い町並みなので道幅は広くない。カオスである。

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 だが、バイパスができて車での移動の利便さが増せば、バイパス沿いに全国どこでも見かける店が立ち並び、商業地域は郊外に移って中心部は空洞化していく。多くの町がこの運命をたどっているなか、会津若松は不便さのおかげで活力を保ちつづけているようであった。

 
 

木造校舎

 一面に冬の田んぼが広がる中に、木造校舎らしき建物が見えたので訪ねてみた。

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 小学四年生の一年間だけであったが、木造校舎で学んだ記憶がなつかしくよみがえってくる。

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 旧喜多方市立岩月中学校、現在は岩月夢想館といい生涯学習施設として利用されているそうだ。

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 往時は広い空と澄んだ空気に包まれた美しい学び舎であったことだろう。

 
 

赤レンガ蔵の集落

 喜多方近郊の三津谷は、集落内の多くの建築物が赤レンガ造りであるという特異な集落である。

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 屋根も赤く、遠くから見ると田園の中の要塞のようだ。

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 そのレンガを生産した登り窯も近くにある。喜多方市内や周辺のレンガ蔵は、この樋口窯業で生産されたレンガを用いて建造されたのだ。

 
 

終着駅

 西原集落へ渡る橋の手前、田付川沿いの平沢も美しい集落である。

Hirasawa1

 ここは喜多方から来る一日五本のバスの終着駅である。

Hirasawa2

 平沢も近隣の集落と同様の美しく静かな集落である。

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 そしてもちろん農家蔵が多い。

 
 

農家蔵

 喜多方周辺の農村集落には、他地域に比べて蔵が圧倒的に多い。これは必要性があってというよりはむしろ、男の見栄で蔵を建てた喜多方の文化の影響であろう。そしてそのおかげで、独特の美しい景観が形成されることになった

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 杉山集落近隣の西原も蔵の多い集落である。

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 美しい集落には美しい家が似合う。

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 豪奢な蔵とは裏腹に、西原はひっそりとした静けさに包まれていた。

 
 

蔵自慢の農村

 喜多方市北東の杉山集落へ。

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 戸数十数戸の小さな集落だが、集落中央の通りの両側に、農村には不釣り合いなほど立派な蔵が迫る。

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 母屋は通りから奥まってあり、蔵だけが通り沿いへ伸び出ている。

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 作りも変化に富んでいる。実用のみならず、魅せるための蔵である。

 
 

蔵造りのラーメン屋

 喜多方といえば、やはりラーメン。

 札幌ラーメンや博多ラーメンには遠くおよばないが、喜多方ラーメンの知名度は高い。喜多方ラーメンを食べさせる店は都内にも多く、チェーン店もある。私もなんども食べたことがあるのだが、地元でいただくのは初めてである。

 喜多方ラーメンの店は決してラーメン屋ではない。多くの店の屋号が「○○食堂」となっていることからわかるように、いわゆる食堂であり、ラーメンはさまざまなメニューのなかの一品である。一般的には、便宜上、ラーメンとしているが、地元では「中華そば」である。

 町の規模に対して店の数がかなり多い。観光客相手に始めたらしき店もないこともないが、大多数は観光客が押し寄せるようになる以前から、地元の人相手に営業している食堂である。

 喜多方ラーメンを提供する店の驚くべき特徴として、いくつかの店は早朝から営業していることがあげられる。朝食にラーメンなのだろうか。

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 そんな典型的食堂のひとつ「あべ食堂」で喜多方ラーメンを食す。

 店舗に蔵が併設されており、蔵座敷でラーメンを食べることもできるようだ。

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 澄んだスープに太縮れ麺。見た目も味もいままで食べたことのある喜多方ラーメンと同じであった。あれ!? 同じだぞ、と思ったが、当たり前と言えば当たり前である。それだけ地元以外に進出している喜多方ラーメン店が忠実な味を再現しているということであろうか。味覚の新発見はなかったが、喜多方の中華そばの雰囲気を味わうことができた。

 
 

喜多方は蔵の町

 蔵の町として名高い福島県喜多方市へ。

 駅からつづく大通りは、アーケード街である。

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 アーケードの下を歩いているとわからないが、通りの反対側の商店街をよく見ると、蔵造りの建物に後からアーケードを作りつけたようである。こういう再生法はきらいじゃないけど、アーケードもずいぶんくたびれてきたことだし、このさい取り払ってしまってはとも思います。

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 喜多方市内で蔵の町並みが比較的まとまって残っているのは、旧小田付村の「おだつき蔵通り」沿いである。

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 古い町並みを訪ね歩いていると、必ず昔ながらの造り酒屋に出会う。

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 毎度毎度、ふらっと入ってみたい誘惑に駆られるのだが、こういう時は車は不便である。試飲せずに買うだけだと味気ない。それに会社の健康診断でγ-GTPの数値が高かったので、最近は飲酒を控えている。そんなわけで通り過ぎてしまうのだが、なんだかせっかく来たのにもったいないような気もする。

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 蔵造りの町並みは、表通りの華やかさとは裏腹に、裏道は閑静である。

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 表通りはお客様を迎えるよそ行きの顔だが、一歩中に入ると、そこは普段着の生活空間である。

 
 

茅葺屋根の宿場町

 会津西街道の宿場町、大内宿へ。

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 街道沿いには茅葺の民家が等間隔で並んでいる。

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 幹線道路から外れていたため再開発されず、江戸時代の宿場の様子を現代にまで残すことになった。

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 早朝であったが、観光客がちらほらと散策していた。日中は人であふれかえるようである。

 
 

生家を訪ねる

 深谷市に渋沢栄一の生家を訪ねる。

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 渋沢栄一に特別関心があるわけではなく、偉人の生家を訪ねることにも興味があるわけではないのだが、近くを通りかかったので行ってみた。

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 近くには、尾高藍香の生家もある。どういう人物なのかあまり知らないのだが…。

 やはり私は、一軒の建築物ではなく、連続した町並みや周囲の自然を含んだ集落におもしろさを感じるようだ。

 
 

往時の面影を探して

 日光例幣使街道の宿場町であった群馬県の境町。

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 宿場町として栄えたとされているが、その面影はあまりない。

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 維新後は生糸の生産が盛んであった。当時の養蚕農家の建物が町の南部に残っている。

 面影を探す町歩きはさみしいものがある。やはり町は生きて活動していてこそである。

 
 

栃木の木造洋風建築

 栃木には往時の繁栄を偲ばせる、いくつかの木造西洋建築も残されている。

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 栃木県庁跡地に建設された現在の栃木市役所別館も大正時代の木造建築物である。

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江戸とみちのくの繋ぎ目

 栃木は日光への入り口にして、みちのくと江戸をつなぐ中継地でもある。

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 物資の集積地として、また宿場町としても栄え、財を成す商人も現れ、多くの蔵が作られた。

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 中心地は舟運で栄えた当時の面影を残す。

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 朝廷の使いが日光に赴くために通った日光例幣使街道沿いにも古い町並みが残っている。

 
 

豪商の町

 須坂は蔵の町である。

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 江戸時代、米、酒、麻といった特産品の一大集積地として、上州から江戸への流通を一手に引き受けた。商人たちは天領の特権に守られて財を蓄え、豪商となっていくのであった。その最大のものが、町の外れに、あたかも大名屋敷のような邸宅を構える田中家である。

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 維新後は日本国の主要輸出品である生糸の集積地として多くの蔵が建てられた。

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 表通りの整然とした蔵の町並みに比して、裏通りには郷愁を誘う町家が並ぶ。

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 蔵の町並みばかりが注目されがちであるが、こちらも味わいがあってよい。

 
 

北斎の愛した街

 須坂の豪商は蔵を残したが、小布施の商人は文化の振興に財力を投じた。

 晩年の葛飾北斎も小布施に逗留し多くの肉筆画を残している。これらの作品が美術館として展示されており、北斎は好きな画家であるので見学に行ったのだが、北斎のようなすぐれた風景画を見るにつけ、風景写真を撮影している私は「絵はいいなぁ」としみじみうらやましくなるのであった。もし自分に画才があれば写真など撮らずに絵を描いていたであろう。近景は広角で描きながら背景は望遠で引き寄せたり、波や木々のデフォルメされた形、人物の躍動感、雪の降る様子、雨粒の軌跡、実に自由でありイマジネーションの世界なのである。

 そんなぼやきはともかく小布施の町並みである。

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 葛飾北斎美術館周辺が、小布施の町並みの中心である。きれいに整備されており、現実感が乏しいが、観光客の誘致には成功しているようだ。

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 商店も整備され蔵作りである。

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 その整備された町並みに普段着の町並みが連続している。

 こじんまりとした、美しく整った町であった。

 
 

修験道の霊場

 戸隠山の麓、山々に囲まれた戸隠神社へ。

 こんな山中に、なぜこのような立派な神社が、とも思うが、山深い地だからこそ修験道の霊場として栄えたのであろう。

 戸隠神社とひとくくりにしてしまうが五つの社から成り、奥社のすぐそばにある九頭龍社を除いて、それぞれ異なる高度に位置し、数キロづつ離れている。

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 もっとも低いところにあるのは、宝光社である。門前には数件の宿坊や土産物店があるが、訪れる人も少なくひっそりとしている。

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 そこから2キロほど登ったところが中社である。ここが観光の中心地であり、最も賑わいをみせている。

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 さらに登ると奥社に到着する。鳥居までは車でも来れるが、そこから30分ほど歩いて奥社へ到着するのだが…。

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 冬季はクロスカントリーで参拝するようなところだとは知らなかった。

 
 

青鬼

 長野県北安曇郡白馬村青鬼、近隣にはスキー場が数多くあるが、そのような現代の賑わいとは全く無縁に存在する集落である。

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 北アルプスの山々に囲まれた人里離れた山中の、14戸のトタンで覆われた茅葺き民家と石段で組まれた棚田から形成されている集落である。

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 民家は江戸時代末期から明治にかけて建てられたものであり、棚田に水を引く水路は江戸時代に開削されたものが今でも現役で使用されている。

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 開墾から現代まで、時代に合わせて少しずつの変化はしてきたが、根本的にはなにも変わってはいない。そしてこれからも変わらずにありつづけていこうとするのであった。

 
 

冬の田園

 平野部では雪もなく、季節はもうすっかり春めいていたが、山間部ではまだまだ冬であった。

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 近くにスキー場もあるのだし、当然ではあるが、明け方はかなり冷え込む。

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 田園に春が訪れるのはまだしばらく先のようだ。

 
 

夜の温泉街

 温泉街は夜になると、さらにその情緒を深くする。

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 郷愁を誘う橙色の灯が町並みを照らす。

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 ほろ酔い気分でそぞろ歩きもまた、夜の温泉街の楽しみである。

 
 

角間温泉

 渋温泉のすぐ近く、角間温泉へ。車でも行けるが、歩いても20分ほどである。

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 角間温泉の大湯には看板が出ていない。観光客を相手にしたものではなく、地元の人向けの外湯である。

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 近隣に、湯田中温泉、渋温泉など有名な観光地があるので、角間温泉を訪れる人は少ないと思うが、数件の温泉宿もある。

 
 

温泉街を歩く

 町並みの区分には、城下町、宿場町、港町、門前町などなどがありますが、温泉町という区分はあまり使われません。しかし、温泉街には古い町並みを残しているところも多く、いまでは観光資源にもなるので、取り壊して再開発されるようなことも少ないと思われます。

 温泉街は、狭い小道や曲がりくねった坂、木造の温泉宿、浴衣でそぞろ歩きする人々と、散策していて楽しいところです。それに温泉にも浸かることができますし。

 そんな歩いて楽しい温泉街のひとつ、長野県渋温泉へ。

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 メインストリートには木造の旅館や商店が軒を連ねます。

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 木造四階建ての温泉宿もあります。

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 街中に九つの外湯が点在していますが、宿泊客しか入ることができません。まぁこれはしょうがないでしょう。日帰りや近隣の温泉街に宿泊して外湯巡りをする人々で街があふれても困りますから。

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 温泉街は、表通りだけでなく裏通りにも情緒があります。

 
 

十ヵ月間の県庁所在地

 明治元年、伊那県の創設により、それまでの天領陣屋が伊那県中野分局となった。二年後、南北に長い伊那県が二つに分割され、北側が中野県となると、中野分局も中野県庁となる。

 だが、そのすぐのち、中野騒動と呼ばれる世直し一揆により、中野県庁は焼き討ちされてしまう。

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 この騒動で消失した家屋は六百軒あまりとも言われる。信州中野には古い町並みがあまり残っていない。

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 中野騒動の後、いまだ新庁舎建設計画中であったが、中野県は廃止され、県庁は無名の小村、長野村へと移された。

 それは中野に県庁が置かれたわずか十ヶ月後のことであった。

 現在の長野市の繁栄をよそに、中野はいまだ百年以上前の一揆の罰を受け続けているかのようにひっそりとしていた。

 
 

ご当地ラーメン

 博多ラーメン、札幌ラーメン、喜多方ラーメンなど全国的に超有名なご当地ラーメン以外にも、数多くのご当地ラーメンがある。観光資源に一発当てようと躍起になっているものもあれば、地元でひっそりと食べ続けられているものもあり、そこそこ知られているものから全くマイナーなものまでさまざまである。

 そんなご当地ラーメンの中でもかなりマイナーなほうの信州ラーメン。粕味噌をスープに使い、地元の食材を具にしたラーメンであるそうだ。

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 スープは粕味噌の味はあまりしなく、タンメンのようなスープであった。そういえば具もそんな感じかも…。

 ネットの発達したこの時代に、信州ラーメンに関する情報は少なく、力を入れて広めようとしているとは思えない。どこで食べられるかもよくわからないし、そもそも店が少ないようだ。味もまぁそのわざわざ食べに行こうとは思わないかもしれないし、これはこのまま、決して「知られざる」とか「知る人ぞ知る」とかではなく、いわゆるひとつのマイナーご当地ラーメンのままでしょうなぁ。

 
 

お猿の温泉

 温泉に浸かるお猿で有名な長野県地獄谷温泉へ。

 自然のお猿の群れの中に人間たちが入っていっても、お猿たちはお猿の世界の事情で手一杯のようで、お猿同士で威嚇したり追いかけたりしても、人間には無頓着のように見えます。写真撮影も気にしないようです。 

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 暖かい日だったので、お猿たちはあまり温泉に浸かっていませんでした。

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 ここのお猿たちは、かつてLIFEの表紙になったことがあり、そのおかげで多くの外国人の方々も訪問していました。

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 すぐ近くには人間用の温泉宿もあります。

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 徒歩で訪れるしかない山中の木造一軒宿。継足し継足し増設したかのようです。

 
 

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