名栗村へ
埼玉県名栗村へ。
都心から近くキャンプや川遊びで訪れる人が多いところである。
村営の温泉に入る。眺めのいい気持ちのいいところだ。
帰宅後に知ったのだが、名栗村へ行ったつもりが、知らない間に名栗村は無くなり、飯能市に編入されていた。ということは、この温泉もいまは市営なのだろうか。
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埼玉県名栗村へ。
都心から近くキャンプや川遊びで訪れる人が多いところである。
村営の温泉に入る。眺めのいい気持ちのいいところだ。
帰宅後に知ったのだが、名栗村へ行ったつもりが、知らない間に名栗村は無くなり、飯能市に編入されていた。ということは、この温泉もいまは市営なのだろうか。
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家族の希望で埼玉県某所のハーブ園へ。
ハーブは好きだがハーブ園はあまり好きではない。ハーブというとこじゃれて聞こえるけど、所詮は草である。草が生えているところを見てもあまりお もしろくない。それにハーブ園のハーブの種類は西洋ハーブに偏りすぎている。ホーリーバジルや香草の苗を売っているところを見たことがない。日本産の ハーブもないし、それなら薬草園へ行ったほうがいいか。とにかくハーブ園は奥様方に大人気です。
そしてハーブ園内のレストランで食事をしました。変わった匂いのする草が入った料理を食べるのは大好きです。
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江戸時代の初めの頃は、中山道は諏訪より上伊奈の小野宿を通り、峠を超えて木曽路へ至る道筋だったが、その後、塩尻を経由する北回りのルートへと変更された。そのため、塩尻より先、木曽路までに洗馬宿と本山宿を経由することになった。
本山宿には、わずかではあるが宿場町の町並みが残っている。
宿場内の道幅は広い。中山道の時代からこの道幅であったそうである。
現代ではバイパスができ、この広い道を通過する車は無い。
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「是より南 木曽路」の碑を超えて最初の宿場町が贄川である。
木曽路への出入口のため関所が置かれ、木材等の監視をしていた。
幾度もの大火により、宿場町の面影はあまり感じられない。
町の南部には火災を逃れた数件の建物が残っていた。
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鳥居峠を控えた宿場町としては奈良井がよく知られている。峠越えを控えているため宿泊する旅人も多く、規模の大きな宿場町であり、江戸時代の町並みも非常に良好な状態で残っている。
奈良井から峠を超えた反対側にも、奈良井ほど名が知られてはいないが、峠越えを控えた宿場町がある。それが藪原宿だ。
奈良井同様に規模の大きな宿場町である。大火により消失したため江戸時代の家屋は多くない。
観光客相手の土産物屋が軒を連ねる奈良井とは違って、実際に人が住んでいる住居や地元の人向けの商店が並ぶ。
江戸時代から続く名産品のお六櫛を商う店も数件あった。
保存された町並みではなく、生活感が感じられる。
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木曽路の宿場町はどこも、深い山に挟まれた谷底の、川に沿ったわずかの土地に密集して建てられている。
しかし、宮ノ越の近辺は木曽路には珍しく開けた土地であり、耕作地も多い。
他の宿場町とは違った開放感がある。
木曽義仲の平家追討の旗挙げの際にも、この開けた土地に兵馬が集結したのであろう。
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木曽郡旧日義村原野が、江戸日本橋から内陸部を経由して滋賀県草津へ至る中山道の中間地点のなのだそうである。
原野は、木曽十一宿として定められた宿場町ではないが、福島宿と宮ノ越宿の間の宿としてにぎわった。
木曽十一宿の宿場町に比べると規模は小さいが、街道沿いに宿場の面影を残す。
現代ではバイパスもできて、通過する旅人もなく、町は静けさに包まれていた。
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木曽谷の中心地は木曽福島である。
木曽地域の政治経済の中心地であり、江戸時代には福島関所が置かれた。

宿場の町並みは昭和二年の大火によりほとんど消失してしまった。
わずかに上の段とよばれる、中仙道が木曽川沿いを迂回して通る台地上の地域だけが延焼をまぬがれ、当時の様子をいまに伝える。

川沿いの地域には江戸時代の町並みの面影はないが、懐かしい昭和の商店街である。
中仙道が迂回した木曽川沿いは崖状の土地であり、崖家造りの建物が並ぶ。
道路側から見ると普通の二階建て建築だが、実際は道より十メートルほど低い川岸に足場を組んで、三、四階建ての建物が建てられており、その上階部分が崖の上に頭を出して通りに面しているのである。
異なる時代の異なる町並みが楽しめる町である。
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木曽路はすべて山の中である。
耕作地が乏しいため、江戸時代には白木が特別に割り当てられ、その加工業を生活の糧にしていた。そうして漆器など木材加工品の製作が発達してきたのである。
木曽地方の漆器といえば、江戸時代にすでに広く知られた名産品であり、現代にもこの伝統は続いている。
木曽平沢には漆器問屋や工房が密集して存在する。その数は百余り、表通りはほとんどすべての店が漆器店であるかのようだ。
江戸時代には奈良井宿を補うための宿場の機能も兼ね備えていたが、現代では完全に漆器の町といっていいだろう。町並みの保存にも力を入れているようだ。
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小野宿は、伊那や木曽と松本、諏訪を結ぶ交通の要衝である。
古来よりこの重要な宿の帰属を巡る紛争は絶えず、豊臣秀吉の裁定により、小野は南北に真っ二つに分断して、北は松本の石川氏が、南は飯田の毛利氏が治めることとなった。江戸時代、明治時代を通じてこの境界はそのまま残り、現代でも北は松本市北小野、南は上伊那郡辰野町小野として、行政上は南北に分断されたままである。
しかし宿場町として栄えたころからひとつの町として機能していたようであり、 目に見える対立や境界があるわけではない。二つの小野でひとつの小学校、ひとつの中学校しかなく、松本市の住民も辰野町の住民も同じ学校に通っている。
宿場の町並みは小野南部辰野町内の国道沿いに見ることができる。
江戸時代の初めの頃は中山道がこの地を通っていたが、やがて中山道が塩尻を経由して木曽路へ向かうルートに付け替えられた後も、信州と三河を結ぶ三州街道の宿場町であった。
主要街道沿いではなかったためであろうか、間口三間の鰻の寝床ではなく、間口の広い堂々と した本棟造りの民家が軒を連ねていた。緩やかな勾配の巨大な屋根には、鳥嚇しと懸魚がつけられている。
かつては豪壮な本棟造りの建築が居並ぶ壮観な町並みであったのだろう。
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「おまえの携帯はもうすぐ使えなくなるから、とっとと新しいのに交換しろ!」という内容のハガキがしつこく来るので、根負けして機種変更しました。会社で携帯電話を支給されているので、別に使えなくなってもかまわないのだけど…。いや、私用で使うのはいちおう禁止です。
もう何年使っているのだろう…。ついに引退の時が来ました。
新しく導入したのはこれ。
どこでもネットができるって、すごい便利なことなのですね。
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