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ヤマレコ

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2009年7月の26件の記事

台地の上の城下町

 城下町佐倉は、切り立った斜面を持つ台地の上に形成された町である。

 東西に長い台地上の西端に佐倉城があり、その周囲は武家屋敷町である。

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 通りに面して土塁と生垣の塀が連なり、江戸時代の武家屋敷が保存されている。

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 公開されている三棟以外の他の屋敷は今でも住んでいる人がいて、門と塀は当時のままだが、建物は新しくなっていた。

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 台地の東側は比較的なだらかである。

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 こちらは町人町であった。

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 まとまった町並みは残っていないが、古い建物がいくつか見受けられた。

 
 

新勝寺

 現代でも参拝する人が多く、賑わう成田山新勝寺へ。

 平将門の乱の平定を願い開山されたということであり、その歴史は古い。

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 仁王門は釈迦堂とともに重要文化財である。

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 広々とした気持ちのいい境内だった。

 
 

賑わう門前町

 成田といえばまず思い浮かぶのは、現代では空港であるが、成田山新勝寺の門前町でもある。

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 門前町は現代でも賑わいをみせている。ウナギを食べさせる店が多い。木造三階建ての旅館もある。

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 電線が地中化されているため、町並みがすっきりとしている。

 
 

水の郷

 「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われるほどの繁栄を誇った、千葉県香取市の佐原へ。

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 古くは香取神宮の門前町であったが、江戸時代に利根川水運の河港として年貢米の集積地となると、急速に発展していく。

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 佐原のメインストリートは小野川である。

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 川沿いには柳と町家が並ぶ。

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 小野川と交差する香取街道沿いにも、かつての繁栄の名残が見られる。

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 佐原も、幾度もの大火を経験しているため、漆喰で塗り固めた蔵造りの建物が多い。

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 明治に入ってからも佐原の繁栄は続く。周囲の穀倉地帯からの米は佐原へ集結した。

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 しかし昭和に入り、輸送手段が鉄道に取って代わられると、商業都市としての佐原の役割も終焉を迎えるのであった。

 
 

油麩

 宮城県登米へ行った際に、特産品の油麩を買い求め、自宅で料理してみた。

 油麩というのは、油で揚げた麩である。見た目は小ぶりなフランスパンのようである。麩は健康食品であるが、油で揚げると少々不健康かもしれない。

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 伝統的な食材であり、もともとは煮物や味噌汁の具に入れていたそうだ。

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 しかし、油麩丼という新メニューが考案され、これが、地元でだけだと思うが、意外にヒットしているようである。登米には油麩丼を食べさせる食堂も何件かあった。

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 新メニューといっても、カツ丼のカツの変わりに油麩を入れただけである。味は、なんと言うか、カツ丼の肉抜きでころもだけを食べているようであった。

 
 

消えた集落

 富士五湖のひとつ西湖の西北、富士山を望む地に、かつて根場という日本一美しいと言われた茅葺兜造りの集落があった。しかし昭和41年、台風による土石流に押し流され、根場は壊滅してしまう。

 地図を見るとよくわかるが、根場は三方を山々に囲まれた山裾にあり、残りの一方は西湖に向かって開けている。三方向の山々に降る雨が根場に流れ集まり、そこから西湖へ流入するのである。根場は山々から流れ出した砂礫が堆積した扇状地にある集落だったのだ。

 このような地形上の特徴があるため、集落の裏山で発生した土石流は、急斜面を激しい勢いで流れ落ち、根場集落を直撃してあっという間に飲み込んでしまった。犠牲者は70人以上、残された人々は集落を放棄せざるを得ず、西湖のほとりへ移り住んだ。

 それから40年、放置されていた根場集落跡に、かつての集落景観を再生させようというプロジェクトが始まる。そうして出現したのが、「西湖いやしの里 根場」である。

 民家園の類にはあまり寄り付かないのだが、ここへは行ってみたいと思っていた。

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 根場からは、晴れた日には富士の山を望むことができる。

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 約20棟の茅葺民家は資料館や土産物屋になっている。

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 このような立派な茅葺集落が、もし現代まで存続していたなら、と思いつつ、往時の景観に思いを馳せる。

 
 

なんとなく河口湖

 うどんだけ食べて帰るのもなんなんで河口湖へ。

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 どんより曇り空で富士山は見えず、ラベンダーの花も終わってしまっていた。

 
 

吉田うどんの超有名店

 平日に仕事を休んで高速に乗り、うどんを食べに富士吉田へ。今回訪れたのは、テレビや雑誌になんども取り上げられたことのある超有名店、「白州うどん」である。

 このような道沿いにそんな店があるとは思えない片側二車線のバイパス沿いにある。店の目印は無い。ただの民家である。吉田うどんの店が掲げている幟もない。家の前の敷地に車が何台も止まっている。停められないときは反対側の薬局の駐車場に停めるように表示があるが、これも車で走っていると見えない向きに設置されている。

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 店というか家に入ると座敷である。当然、玄関で靴を脱いで上がる。まるでよそ様のお宅へ上がっているようだが、まさにその通りなのである。座敷にはこの家のものであろう様々な備品が置かれている。神棚もあるし仏壇もある。床の間には娘さんのものと思われる習字の掛け軸がかけてある。壁には芸能人やレポーターのものらしきたくさんのサイン色紙が飾ってあるが、その数が多すぎて重ねて飾ってあるため、肝心のサインが良く見えない。

 メニューも無い。玄関を入ってすぐ横の時代がかった厨房で、「あったかいの」か「つめたいの」かを頼むのだ。座敷に座って周りを観察していると、程なくして「あったかいの二つお願いしま~す」とか呼ばれるので、厨房まで取りに行く。しかし、私の前も、その前も、二人連れで、あったかいの二つ注文しているようであり、店に入った順番をよく把握しておかないと、だれの分なのかわけがわからなくなってしまう。まぁ、こういうところは、こういった店では通例の紳士的な振る舞いによりシステムが維持されている。それもこの手の店のいいところである。

 こちらのお店は、マスコミに良く取り上げられているせいで、一見観光客も多いため、見ず知らずの人でも暖かく応対してくれる。しかし外から見た様子は、相当入りづらい雰囲気である。

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 味噌と醤油が混ざったような汁が一般的な吉田うどんであるが、こちらは醤油の澄んだ汁であった。麺は吉田うどんの平均的固さと太さである。なれているので普通に食べてしまうが、初めて食べるとなんじゃこりゃぁとなること間違い無しである。具はもちろんキャベツだ。

 食べ終わったら、またセルフサービスでお盆を下げる。そして厨房で会計して帰るのだ。一杯350円。安さも吉田うどんの魅力のひとつである。

 
 

檜枝岐の蕎麦料理

 檜枝岐は標高が高く、稲作に適さない土地であるため、蕎麦が米に変わる主食の地位を占めてきた。そのため蕎麦を使った様々な料理が存在する。

 蕎麦はつなぎを使わない十割蕎麦である。平らに伸ばした蕎麦を重ねて、小間板を使って押切りせず、布を裁つように引き切りするため、裁ち蕎麦と呼ばれている。小間板を使わないので太さはまちまちだが、十割蕎麦特有のボソボソした食感はなく、ツルッと食べられる。

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 「はっとう」と呼ばれる蕎麦餅は、その昔、あまりの美味しさに村人が食べるのはご法度になったことから、その名がついた。モチモチしていて甘い。周囲で採れる物を食べて暮らしていた時代には禁断の味だったであろう。

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 他からは隔絶した土地であったため、独自の食文化が発展している。蕎麦の他にも、山菜やキノコ、川魚など山の幸を食材に用いた地元の料理を総称して山人料理という。

 
 

檜枝岐歌舞伎

 檜枝岐歌舞伎、南会津郡檜枝岐の地に、260年以上前より代々受け継がれてきた農民芸能である。檜枝岐の住民が江戸で見た歌舞伎を、見よう見真似でこの地に伝えたのがその起源とされている。

 民家の間の狭い路地をぬけると、檜枝岐歌舞伎の上演場所である神社に着く。

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 歌舞伎は神社への奉納として、年二回上演されている。舞台は神社の境内に、神々からよく見えるように、神社に向かって建てられている。

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 現在の舞台は、明治時代の大火で消失後に再建されたものだが、総檜造り、茅葺屋根の、伝統的な建築物であり、国の重要文化財でもある。

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 そして、神社へ続く石段が、そのまま観客席となっている。それはあたかもローマ帝国の半円形劇場のようである。

 木々に囲まれたアンフィシアター、いつかここで上演される歌舞伎を観劇に訪れたい。

 
 

山々に閉ざされた集落

 南会津郡檜枝岐村、南会津の最奥部であり山々に閉ざされた地である。

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 2,000m超級の山々に三方を囲まれており、また豪雪地帯でもあって、長らく他の世界とは隔絶された陸の孤島であった。

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 しかし、日本有数の観光地である尾瀬の、北の玄関口として人々が訪れるようになり、現在では民宿も数多く、温泉もあり、このような山深い地では例外的な賑わいを見せている。

 
 

街道沿いに茅葺屋根

 南会津で車を走らせていると、街道沿いの集落内に一軒の茅葺民家を発見した。

 車を停めて写真を撮影する。ここは田ノ瀬という集落らしい。

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 なぜか観光用の駐車場があり、なぜか韓国語での表示もある。近くに観光スポットらしきものがあるようには見えないし、店もなにも無い。ただ駐車場があるだけだ。謎である。

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 茅葺屋根は郷愁を誘うが、やはり集落として連続してあるべきである。現代建築の中にまぎれていると、みすぼらしく見えてしまい残念である。

 しかし、こちらのお宅の屋根は手入れもいきとどいていてきれいな状態であり、これからもできる限り維持していっていただきたいものである。

 
 

のどかなのどかな温泉街

 湯ノ花温泉、南会津の山中にある、のどかな温泉街である。

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 川沿いに温泉宿が並ぶ、これといって特筆すべき点がないのが特徴であるくらい普通の温泉地である。交通の便も悪く、観光地として遠方から人が集まるようなところではないが、地域に根付いた温泉街なのであろう。

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 一軒だけだが茅葺屋根の民宿を見つけた。

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 共同浴場も数件あった。

 
 

山の奥の茅葺集落

 旧舘岩村前沢は街道沿いの集落だが、この街道からそれて山に入り、道を登っていったところに、もうひとつの茅葺集落である水引がある。

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 水引は全く観光地化に関心がなく、従来の生活が続けられているようであった。

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 茅葺屋根は少なくなり、手入れの行き届かない建物もあったが、こちらのほうが現代日本の山村の現状であろう。

 
 

茅葺曲家集落

 会津西街道から西へ分岐して、南会津最奥の桧枝岐村に至る街道沿いに、茅葺屋根の民家群が残る集落がある。それが旧舘岩村前沢である。

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 前沢の民家はどれも、母家に厩が連結されL字型に曲がった曲家である。前沢には茅葺屋根の曲家が十数棟も残っているのだ。

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 集落の大部分が茅葺屋根であり、状態もとても良い。

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 きれいに整備され保全されているので、人が住んでいるのだが、あまり現実感のない集落風景であった。

 
 

会津西街道の集落を訪ねて

 会津西街道沿いの、特に福島県内には、昔ながらの集落が数多く残っている。

 そんな集落のひとつ、古内平を訪れる。

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 国道をそれて脇道に入り、川を渡ると左手に集落への入口がある。

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 この集落には茅葺屋根の民家が一軒残っていた。

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 こういった集落は南会津には数多くありそうだ。いずれまとめて訪ねてみたい。

 
 

会津西街道の中心地

 会津若松より南下して日光に至る会津西街道、下野街道や南山通りとも称される。

 この街道の中央に位置し、街道中の唯一にして最大の町が会津田島である。

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 会津西街道中の他の集落とは異なり、会津田島は街である。

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 かつての名残か、木造の旅館も数件残っている。どのような需要があるのだろうかと疑問に思っていたが、この日は高校生の部活の合宿が行われていた。

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 会津田島には木造西洋建築の旧南会津郡役所が、現在の南会津町役場の敷地内にある。

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 かつても、そして今でも、南会津の中心の街なのである。

 
 

交通の要衝

 江戸から東北へ至る街道としては、栃木、白河を経由して内陸を行く五街道のひとつの奥州道中がある。それとは別に、水戸を通って海岸沿いを行く常磐道もある。

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 この二つの道が仙台の南の岩沼で合流する。当然、交通の要衝として発展することになる。

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 町の規模は大きく、現代でも比較的賑わっている。しかしそのために古い建物は取り壊されてしまったようである。

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 街道沿いにわずかに三ヵ所、往時の建物が現代の町並みの間に埋もれている。

 
 

紅花商の町

 宮城の小京都、村田へ。

 紅花の商いで潤った豪商の店蔵が建ち並ぶ。

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 関東では黒漆喰壁の蔵が一般的だが、ここでは海鼠壁が主流である。

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 鰻の寝床の店の奥へ行く通路が、建物外に付けられている。

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 古い町並みエリアは広くないが、重厚な店蔵が比較的連続している。そんな町並みが、高速道路のインターを降りて5分のところに存在するのもおもしろい。

 
 

田園風景

 以前から、新たな撮影テーマとして田園風景の写真を撮ろうと思い、撮影によさそうな場所もいくつか候補に挙がっているのだが、いかんせん最近は町並み探訪に力を入れすぎているため、なかなか田園を訪れる時間が無い。季節や時間帯、天候で大きく風景が変わるため、どこかできるだけ近くの一ヶ所に決めて、なんども訪れるのが、いい写真をものにする最良の手段である。しかしこれは日本全国様々の場所の町並み探訪とは相容れない撮影スタイルなので、なかなか実行に移せずにいる。

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 まぁ撮りたいものがいろいろあるというのは、カメラを趣味にしている人間にとっては幸せなことなのですけどね。

 
 

茅葺の里

 山形県は尾花沢市と村山市の市境近くの山中に茅葺屋根の農家群が残る集落がある。国道からそれた脇道に入り、山を登っていった道の終点にある集落である。

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 茅葺屋根の集落があるのは村山市側の五十沢地区の上五十沢である。

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 継足し継足しで増設されているため、建築様式に統一性はない。実用性のある改修がおこなわれているのであろう。住み続けるための努力が継続されているのである。

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 観光に力を入れる様子もなく、農業で生活を営んでいるようだ。

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 修復され保存された民家園ではなく、人々が住み生活している生きた茅葺集落である。

 
 

店蔵の活用

 大石田では現在でも店舗として使われている店蔵を何件も見た。

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 なかには居酒屋チェーンに改築されている蔵もあった。

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 蔵造りの「大吉」である。

 内部はどうなっているのだろうか、まさか蔵座敷じゃないよなぁ。

 
 

舟運の町

 大石田は最上川とともにある。

 舟が輸送の中心であった時代、大石田は最上川の舟運の中継地として繁栄した。

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 酒田からの舟は大石田で積荷を降ろし、ここからは舟を変えて、または陸路で各地に運ばれた。周辺の産物も大石田に集結し、ここで酒田への船に積み込まれたのだ。

 最上川が町の表側であり、当時は川に面して建物が並んでいたであろう。

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 しかし現代では、川はすっかり町の裏手の存在になってしまい、町を洪水から守るための堤防が、大石田の町を最上川から遠ざけているように見える。

 舟運とともに栄え、舟運とともに衰退していく運命の町である。

 
 

大正モダンの温泉街

 大正時代当時の人々がどう考えていたかは定かではないが、現代に生きる私から見ると、大正時代というのは、近世と近代の絶妙な融合、東洋テイストと西洋テイストの均衡の取れた混ざり合い、日本伝統の文化に欧風の趣向が入り込み、大衆文化が花開いた時代、そういったイメージである。

 そんな大正時代に建設された温泉街が、山形県の銀山温泉である。

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 江戸時代初期からの湯治場であった銀山温泉が、大正初めの洪水を契機に建て替えが進み、東北の山中に大正モダンの温泉街が出現することとなった。

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 木造三階建ての旅館が銀山川を挟んで建ち並ぶ。見事な鏝絵を残す旅館もある。

 「おしん」の舞台となったことでも知られる温泉街である。

 
 

登米の町並み~明治時代編

 「宮城の明治村」と呼ばれる登米には、明治期の建築物も多い。

 木造洋風建築の登米警察署庁舎、この瀟洒な建物は昭和43年まで警察署として使われていた。

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 他にも水沢県庁舎など明治の建築物は残るが、やはり最大の見ものは登米高等尋常小学校である。

 木造校舎は郷愁を誘うものであるが、これはあまりに立派過ぎて畏怖をおぼえる。

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 設計は、ウィーン万博の日本館建設に参加した山添喜三郎である。先の登米警察署庁舎も山添の設計である。

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 建設に当たっては、素材を十二分に吟味し、莫大な時間と経費をかけて行われた。当時は批判もあったようだが、それが100年以上を経た現代に、この建築物を残すこととなった。

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 正面玄関の柱頭飾りは正確にイオニア式である。そして木製である。

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 この小学校は、昭和48年まで現役で使用され、その後も臨時の校舎として使用されたりしつつ、現在では教育資料館として一般公開されている。

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 すぐ裏手には現代の登米小学校がある。

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 古いものを取り壊すのではなく、大切に使用し続ける精神が根付いた町である。

 
 

登米の町並み~江戸時代編

 宮城県登米市登米、市の名前は「とめ」市だが、町は「とよま」である。

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 現代では静かで小さな町であるが、かつては町のすぐ横を流れる北上川の舟運で栄えた。しかし物資輸送の主役が舟から鉄道、そしてトラックへと移ると、鉄道からも主要道路からも大きく外れている登米は開発から取り残され、その結果、古い町並みがよく残ることとなった。

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 北上川に最も近い通りが、かつての商業の中心地だったのであろう。蔵造りの商家が、川と並行して走る道沿いに並ぶ。

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 江戸時代には登米伊達氏の城下町であった。川から少し離れた地域は、かつての武家屋敷街である。藩政時代から変わらぬ屋敷門に漆喰塀の家々が並ぶ。

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 登米はまた、玄昌石の産地でもあった。この特産品を用いた天然スレート葺きの屋根も見ることができる。

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 現在ではもう玄昌石は産出していないが、登米は古いものが自然と残る町である。

 
 

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