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ヤマレコ

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2009年9月の26件の記事

近江商人発祥の地

 豊臣秀次がこの地を与えられ、琵琶湖の畔に八幡城を築き、その城下町を造成したのが、近江八幡の町の起こりである。

 城の周囲を取り囲むように、琵琶湖から続く八幡掘りを開削した。これは城の内堀であるとともに、当時の輸送の大動脈である琵琶湖を行き来する船を近江八幡に寄港させることで、経済の発展に寄与することになる。

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 秀次はまた、安土城下より商人を移住させ、楽市楽座の制を取り入れるなど、近江八幡の経済都市としての発展に力を注いだ。

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 八幡城が廃城となったのちも、近江八幡は在郷町として成長していくことになる。それはこの地より起こった近江商人の力によるものである。

 近江商人は、金に汚い、儲け主義、というような商人の悪いイメージからは程遠かったようだ。近江商人の商売の原則は、天下の需要と供給を調整することが商人の使命であり、それによるわずかなおこぼれをいただく、というものであり。売り手も、買い手も、世間も、全てが良かったと思えるような三方好しの商売をすることを絶対とした。
 これはいまで言う、企業の社会貢献や利益の社会への還元につながる精神である。また、近江商人は、複式簿記の発明、チェーン店制度の導入など、現代にも通用する改革を行っている。

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 近江商人は天秤棒を担いで全国を渡り歩き、各地に支店を設け、北海道の開拓や鎖国前は朱印船貿易を行う者もいたが、本宅または本店は近江八幡に置き続けた。そのため近江八幡の町は廃れることなく、また、近江商人の家訓どおりに華美になることもなく栄え続ける。

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 新町通りには近江商人の邸宅が続く町並みがよく残されている。間口いっぱいに主屋を建てず、わずかの前栽が設けられており、ここに植えられた松が、板塀越しに見越しの松として近江八幡の景観の特徴になっている。

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 明治時代、鉄道の開通時には、「汽車が通ると煙い」という理由で、鉄道の駅は町から遠く離れた地に建設された。そのため開発圧力から逃れ、当時の町並みを近江商人の精神とともに現代に残すこととなったのである。

 
 

鳥居のトンネル

 津和野は周囲を山々に囲まれた小さな盆地にある。そのため、それらの山のいずれかに登ると、津和野の町並みを見下ろすことができる。

 そこで、太鼓谷稲荷神社に登り、眼下に広がる津和野の町並みを眺めてみることにした。

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 神社へ続く石段は鳥居のトンネルになっていた。登れども登れども鳥居のトンネルはどこまでも続く。

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 石段は長く、途中で挫折し、中腹から町並みを見下ろした。

 
 

赤い屋根と青い空と緑の山々

 山陰地方を旅すると、ほとんどの日本家屋に用いられている石州瓦の特徴的な赤茶色の屋根が印象に残る。鉄分を含む来待石を釉薬の原料として使うために、あの独特の色合いになるのだそうだ。

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 萩から津和野へ向かう山中には、青い空と緑の山々を背景にして、赤い石州瓦屋根が映える集落が点在している。

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 津和野はかつての津和野藩の城下町であり、この地方の中心地であり、山陰の小京都と謳われる地である。

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 城下町の周囲には町人町が広がっている。

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 藩政時代には製紙業や醸造業が振興され、藩経済を支えた。

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 大通りにはかつての商家が軒を連ねるが、裏道に入るとそこには普段着の津和野の町並みがあった。

 
 

日本海の海の幸

 萩は日本海に面しており、漁港で上がったばかりの新鮮な海の幸を楽しむこともできる。

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 道の駅の食堂で、ノドグロの煮付けに刺身、天ぷら。刺身のマグロは萩で上がったものではないと思うけど、それ以外はたぶん地物。新鮮でコリコリとしていた。

 
 

萩藩校明倫館

 萩藩の藩校である明倫館は、江戸中期に萩城内に建設され、その後江戸後期には城下へ移転した。

 その跡地が現在の明倫小学校である。

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 立派な木造校舎が数棟も並ぶ壮観な眺めである。

 
 

三角州の先端

 阿武川が日本海へと流れ出す直前に、橋本川と松本川の二手に分かれる。萩の町は、その二つの川にはさまれた三角州の上にある。

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 三角州の先端、海から最も遠く、阿武川が二手に分かれるところが川島地区である。三角州上で最初に開拓された地区だといわれている。

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 川島地区を流れる藍場川は、三角州の先端近くから引かれた水路である。農業用水、生活用水として、また物資の輸送に活用されてきた。

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 この辺りは萩城下でも、最ものどかな地域である。

 
 

商業都市としての萩

 城下町としてのイメージが強い萩だが、北東部の浜崎は町人町である。

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 城下の町並みとは異なり、浜崎には町家が軒を連ねる。

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 浜崎は港町でもある。

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 漁港があり、北前船の寄港地でもあった。

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 萩への物資はここから運び込まれたのである。

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 漁師のほかにも漁業にたずさわる店舗が多く見受けられる。

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 この辺りは、萩の商業の中心地であったのだ。

 
 

もうひとつの武家屋敷町

 堀内とともにもうひとつの武家屋敷町である平安古へ。

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 堀内とは、外堀にかけられた平安橋でつながっている。

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 この地域の開墾が進むにつれて武士が移り住み、武家屋敷町が形成された。

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 こちらも碁盤の目の町割りである。

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 鍵曲がりも見られる。

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 江戸時代から変わらぬ町割りである。

 
 

凍結保存の城下町

 山口県萩市、城下町の町並みで知られるところである。江戸時代の町割りが現代に残り、当時の地図がそのまま使えると言われる。

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 堀内地区は、萩城の城内であり、萩藩の重臣の御屋敷街である。

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 碁盤の目の町割りに、門と塀が延々とつづく。

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 敵の侵入を防ぐための鍵曲がりも見られる。

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 城下町には藩士や豪商の屋敷があった。こちらも江戸時代のままの姿をとどめている。

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 江戸屋横丁、伊勢屋横丁、菊屋横丁を中心に、寺院や維新の英傑ゆかりの地が点在している。

 この辺りが萩観光の中心だが、この他にも重伝建に指定された地域が二ヶ所もあり、それ以外の見所も多く、とても一日では回りきれない密度である。

 
 

夜の原爆ドーム

 広島市内で夜を迎えたため、ライトアップされている原爆ドームを見に行く。

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 いくつもの条件が重なって、爆心地近くでは奇跡的に崩壊しなかった建築物である。当時内部にいた方々は全て即死だったそうである。

 世界遺産に登録され、今後、取り壊し等の議論が出ることは無いだろうが、この建物をこの状態で保存していくことは困難になるかもしれない。

 
 

造り酒屋の町

 広島県東広島市の西条、かつては山陽道の宿場町として発達した。しかし都市化の波に飲まれ、宿場町としての面影は消えてしまった。

 西条は灘、伏見と並ぶ日本三大酒どころであり、西条駅周辺には八つの醸造場が現役で操業している。このうちの六つは一ヶ所にかたまって在り、酒蔵の町並みを形成している。

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 この一角だけが開発から逃れ、江戸期の面影を残している。

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 表通りは旧山陽道である。

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 裏通りに入ると、白壁と酒蔵の細い路地が続く。

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 いまとなっては貴重な町並みであり、観光資源としても活用され始めている。今後この酒蔵の町並みが、開発され消えるようなことは無いであろう。

 
 

重く深い塩の町

 製塩業で栄えた竹原、いまも江戸時代の町並みが残る。

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 もとは水田として干拓されたが、海辺の土地であるため塩分濃度が高く、やむを得ず塩田にしたのが、竹原での塩作りの始まりである。

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 その後、竹原の塩は、瀬戸内では赤穂の塩と並ぶ特産品に育ち、莫大な富を竹原の町にもたらした。

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 今に残る江戸期の町並みは塩と、もうひとつの特産品であった酒によって築きあげられたのである。

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 決して華美ではないが、細部にまで優れた意匠がほどこされている。

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 黒、白、灰色、藍色を基本とした町並みは重厚であり、曇天の日には、深く重く哀愁を漂わせる。

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 製塩業は昭和30年代には衰退した。その後の高度経済成長期には、この塩田を埋め立てることで市街地を拡大してきた。そのため古い町並みは開発圧力を逃れ、その姿を今に残すこととなったのである。

 
 

小さな港町

 広島県竹原市の忠海へ。

 近隣の人でもない限り、あまり知る人のない町である。ある本でこの町の煙草屋の写真を見て訪れてみたくなったのである。

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 中心街には古い町並みが残っていた。

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 お目当ての煙草屋は特に探さなくてもすぐに見つかった。それくらい小さな町である。

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 瀬戸内の海辺の町であり、小さな港もある。

 
 

尾道ラーメン

 尾道ラーメンといえば、全国に数多ある御当地ラーメンの中でも、比較的その名が知られているラーメンである。しかし、尾道ラーメンとはどんなラーメンかというと、話が少々複雑になってくる。

 尾道のラーメンが全国的に有名になるよりもずっと前、戦後まもない頃から営業を続けてきた老舗が数店舗ある。当時は「尾道ラーメン」などという呼称は無く、ただ単に「中華そば」と呼ばれていた。それらの店は長らく地元客を相手に商売してきたのだが、大林宣彦映画の影響などで尾道を訪れる観光客が増えると、老舗のラーメン店も人気が出てくる。

 これに目をつけた目端の利く人物が、「尾道ラーメン」というネーミングで全国展開を始める。地域ブランドの確立など、さほど盛んでもなかった時代である。先見の明があったと言わざるを得ない。ほどなくして尾道ラーメンは全国的に認知されるブランドへと育つ。

 全国展開を始めるにあたって、尾道ラーメンとはどんなラーメンかを定義したらしい。しかしここで問題なのは、先の目端の利く人物が、老舗ラーメン店の経営者ではなかったことである。その結果、全国的に知られる尾道ラーメンと尾道の老舗の中華そばは厳密に言えば別物になってしまったのだ。老舗の多くは「尾道ラーメン」という呼び名を使わず、かたくなに「中華そば」としつづけているらしいが、その気持ちはよくわかる。

 さて、こんな場合どちらを食べるべきか。ラーメンマニアは両方かもしれないが、私はマニアではないし、ラーメン二杯はおいしく食べられないうえに健康に悪い。通常は老舗へ向かうのだが、行列に並ぶのは辛いので、駅前で目立つラーメン店に入ることにした。大々的に尾道ラーメンを掲げている店である。

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 いろいろと食べ比べずに書くのは気が引けるのだが、老舗も後発もさして大きく違わないのではないだろうかと思う。大まかに言えば醤油味のあっさりラーメンである。都会の気合の入ったあっさり系のラーメンではなく、素朴な味である。

 豚の背油が入っているのが尾道ラーメンの特徴のひとつなのだが、スープがあまり熱くないので、背油が溶けずにコリコリしていた。失敗なのか、わざとそうしているのか、他の店も同様なのか、東京の背油入りラーメンを食べなれている身には非常に疑問であった。

 
 

坂の町

 尾道は坂の町である。

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 険しい断崖にへばりつくようにして町並みが形成されている。

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 お年寄りには困難なくらい険しい坂道を登らなければならない。

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 集落内の路地も狭く、私有地かどうか区別のつかないところもある。

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 お寺の中が普通に通路として使われていたりもする。

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 家屋は昭和の建築が多いようだが、路地の雰囲気は昔のままである。

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 断崖の集落の前には平地が広がるが、こちらは埋め立てでできた土地だろう。

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 こちらも昭和の香りのする町並みである。

 
 

奇跡の港町

 瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦、古来より鞆は潮待ちの港として発展してきた。

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 鞆を境にして潮の流れが変わるため、瀬戸内海沿岸を行く船は鞆の港に立ち寄って潮目が変わるのを待たなければいけなかった。

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 そのため歴史上の人物も多く鞆に立ち寄っている。大伴旅人、足利尊氏、坂本竜馬、三条実美、歴史に名を残す人物たちが、この地に降り、現在と変わらぬ風景を眼にしていたのである。

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 江戸時代には朝鮮通信使も鞆に立ち寄った。彼らが「日東第一形勝」と褒め称えた福禅寺対潮楼からの眺めも、当時と大きく変わることはない。ただし、当時の対潮楼は海に突き出た岸壁上にあり、眼下には波が打ち付けていたのだが、現代では埋め立てられ、県道とフェリーの発着所が作られている。

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 沿岸航海から沖乗りが主流になると、鞆で潮待ちする必要は無くなり、沼隈半島の先端部という海が交通の主流であった時代には有利な条件も、陸上輸送が主流になると、鉄道や主要道路から大きく外れた地となってしまった。

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 そのため大規模に開発されることも無く、鞆には江戸時代から変わらぬ町並みや港湾施設が奇跡的に保全されているのだ。

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 半島を周遊する道路は東側も西側も、半島先端部の鞆で行き止まってしまう。いまさらに町並みをつぶして道路を通すことはできないので、港の一部を埋め立てて橋を掛ける計画がある。

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 橋の建設計画が決定したとき、万葉の時代からつづく奇跡の港町の景観も大きく様変わりしてしまうのだろうか。

 
 

夜の倉敷美観地区

 夜、暗くなってから、再び倉敷美観地区へ。

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 昼間の喧騒とはうって変わって、ひっそりとした静けさに包まれている。

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 町並みがほのかにライトアップされている。

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 煌々と照らされているわけではなく、周囲は漆黒の闇である。

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 夜の町並み歩きも意外とおもしろいことを発見した。

 
 

古い倉敷

 倉敷川沿いの蔵の町並みから、一本北へ入る。倉敷川と並行して走る本町通りは、かつての街道筋であり、川沿いが発展する前から倉敷の中心であった。

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 町家が中心の本町通りは倉敷川沿いとはまた違った趣である。

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 こちらも、倉敷川沿いに近いところは多くの人々で賑わっている。

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 路地には人気が無いのも同様である。

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 すこし先まで歩いていくと、だんだんと喧騒から遠ざかってくる。

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 本町通りを歩いていくと東町へと入る。

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 さすがにここまで来ると訪れる人は少ないようだ。

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 ようやくしっとりとした倉敷の町並みに触れられたような気がした。

 
 

倉敷美観地区の思い出

 超有名町並みの倉敷へ。

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 駅前はごく普通の地方都市だが、そこから少し離れた倉敷川沿いに、現代都市に包まれるようにして古い町並みが残っている。

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 現代では鉄道の駅は町の中核だが、江戸時代には河川が主要な輸送機関であったのだ。年貢米の集積地として倉敷は川沿いに繁栄した。

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 観光地であり訪れる人も多く、川沿いの店蔵は観光客を当てにした店舗になっている。

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 その一角に昔ながらのかまぼこ屋をみつけた。観光で商売するには一等地だが、かたくなに先祖の仕事を守りつづけているのだろうか。

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 駅方面からつづく商店街にも蔵造りの建物は残っているが、アーケードでおおわれていた。

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 倉敷へは、中学生の時に修学旅行で訪れて以来の訪問である。大原美術館の見学を抜け出して、喫茶店で時間をつぶしていたことを今でもおぼえている。

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 その喫茶店が、大原美術館のとなりにある、このエルグレコだったような気がするのだが…、当時は中にゲームがあって…、いろいろと確かめてみたかったが、閉店時間を過ぎてしまっていた。

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 川沿いの美観地区は多くの観光客が行き来するが、路地裏はひっそりとしていた。

 
 

日本の道100選

 高梁の町中を流れる紺屋川の両岸に、桜と柳の並木道が続く。

 この道の途中に「日本の道100選」の碑があった。そういえば山梨県の台ヶ原宿でも、この碑を見たことがある。

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 帰宅してから調べてみると、日本の道100選とは、道の日の制定を記念して、建設省と日本の道100選選定委員会なる会が選定した、特色ある優れた日本の道なのだそうである。道の日? あまり一般的ではないような気がするが、8月10日は道の日なのだそうだ。

 この100選の中には訪れたことのあるところも多く、そうとは知らずに写真を撮っているとこもあれば、全く聞いたことも無かったような場所も含まれていておもしろい。100選に選ばれている道を訪ね歩いてみたくなった。100選と謳いつつ104の道が選ばれているアバウトさも好感が持てる。

 
 

もうひとつの松山

 松山といえば、多くの人は四国の伊予松山を思い浮かべるだろう。道後温泉や夏目漱石の坊ちゃんなどで全国民的に知られている。

 しかし岡山県の山中にも松山があった。備中松山藩である。

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 幕末、藩主の板倉勝静は徳川慶喜の信頼厚く、老中筆頭として幕藩体制の建て直しに奔走する。松平定信の孫でもある板倉勝静には、維新後の新政府に恭順するという選択肢はなかった。戊辰戦争が起こると奥羽越列藩同盟の一員として函館まで転戦する。

 その間、備中松山藩の留守を預かる山田方谷は領民の命を最優先するため新政府に降伏する。もっとも、周りが新政府派ばかりの西国で、山中の小藩である備中松山藩がいくらがんばっても先は見えていただろう。

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 この後、備中松山藩は、まぎらわしいという理由で高梁藩と改名させられ、廃藩置県後は高梁県となる。

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 現在は岡山県の高梁市となっているが、当時の城だけは今でも松山城である。

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 山城の麓の石火矢は武家屋敷町であった。

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 その周りの本町一帯には商家が残っている。

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 町の周縁には城郭のような松蓮寺がある。

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 日本の歴史の表舞台に立つことはなかったが、小藩には小藩の歴史があるのだ。

 
 

最後の弁柄町

 吹屋から数百メートル山を下ったところにも、銅山とベンガラ製造で栄えた下谷の町並みが残っている。

 吹屋では赤土の壁が多く、ベンガラ壁はあまり見られないのだが、下谷の田村家はベンガラ壁である。

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 田村家の福岡屋は、江戸時代にベンガラ製造を始め、吹屋地区で最後までベンガラを製造していた。福岡屋のベンガラ工場は、現在、弁柄館として公開されている。

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 吹屋の中心地からすぐ近くだが、下谷には訪れる人も無くひっそりとしていた。

 
 

弁柄の邸宅 その2

 銅山経営と緑著(ローハ)の製造で財を成した、もうひとつの大庄屋の邸宅、広兼邸へ。

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 吹屋の町から南へ数キロの中野地区に広兼邸はある。

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 まるで城のような外観である。

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 映画「八つ墓村」のロケが行われたところでもある。

 
 

弁柄の邸宅

 吹屋の町から数キロはなれた山中にベンガラで財を成した庄屋の邸宅がある。

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 そのうちのひとつが坂本地区の西江邸である。銅山の経営とベンガラの原料となる緑著(ローハ)の製造で財を成した。

 この地域の大庄屋であり、簡単な裁判もここで行ったそうである。

 
 

現役最古の小学校

 吹屋小学校校舎は現役最古の木造校舎である。

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 現役である。つまりいまでも吹屋の小学生はここで学んでいるのである。

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 明治時代後期、銅山の最盛期に建設され、最高の建材と贅沢な意匠を誇る。当時は数百名の生徒が学んでいたが、現在では数名である。建築物としての耐久性よりも過疎化による廃校が先にこないことを願うばかりである。

 
 

弁柄色の町並み

 銅山の捨石から作り出される、赤色染料であるベンガラの国内唯一の産地として隆盛を極めた町が、山陽の山中に存在する。備中吹屋である。

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 鉱山町は、街道や他の町とは無関係に、鉱石が採掘される山中に形成される。吹屋もそうした山中に忽然と出現した町並みである。

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 吹屋の銅山としての歴史は古いが、ベンガラ製造は江戸中期に始まる。その後、江戸時代後期より工業化され、化学合成のベンガラが主流となるまで生産が続けられた。また銅山は明治時代には三菱の所有となり、日本三大銅山のひとつでもあった。

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 インドのベンガル地方からの輸入品であったため、その名がついたベンガラは、当然高級品であり、その唯一の産地であり、質も高かったことから、吹屋の町も大いに潤った。

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 赤い石州瓦にベンガラで着色した赤い格子を持つ非常に統一感のある町並みだが、個々の家々は、切妻あり入母屋あり、平入りも妻入りもありで個性がある。日本の伝統的な町並みはどこもそうであるが、現代の町並み造りでも重要な、全体的な統一感と個々の建築の個性という相反する二つの要素を安々と達成している。

 
 

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