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ヤマレコ

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2009年10月の44件の記事

カニ醤油

 鑰屋可兒醤油、蔵造りの店舗が臼杵本町商店街の中ほどにある。

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 美濃藩主稲葉貞道が臼杵に移封されることになり、事前の偵察隊として送り込まれた七人衆の中のひとり可兒孫右衛門が、商人に扮して臼杵城下に潜入し興した店である。慶長五年の創業というから、実に400年以上も代々つづく醤油店である。

 さしみ醤油とうまくち醤油の二本を購入。

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 関東だとあまりさしみ醤油をつかわないが、普通の醤油を刺身につかうとしょっぱすぎる。だからといって少しだけしかつけないと、魚の生臭さが強く残る。さしみ醤油はとろっとしてからみやすく、味もひかえめで刺身の風味をそこなわない。

 うまくち醤油の「うまくちひかり」で煮物をつくるとばつぐんにおいしくできる。やはり煮物はしょっぱい醤油よりはうまみのある醤油でつくったほうがいい。冷奴にかけてもおいしかった。

 どこの醤油がうまいかという話ではなく、適材適所で醤油も使い分けるべきである。

 
 

臼杵せんべい直売所

 駐車場の角に佇む後藤製菓の臼杵せんべい直売所。

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 写真を撮った後、土産にせんべいでも買おうかと直売所へ近づくと、ガラスの扉が開き、外へ飛び出すような勢いで、小柄なご高齢のおばあちゃんが顔を出した。こちらの気勢を制すかのように、せんべいをぶちまけ、次々と袋を破って試食を勧める。生せんべいやアイスクリームも食べさせてもらい、おばあちゃんはそれぞれの味について九州弁で熱く語る。完全にばあちゃんペースである。

 三色詰め合わせを一箱購入した。ありがと、ばあちゃん。元気でな。

 臼杵せんべいは鞍型に曲がった、生姜の味が特徴的な甘くて硬いせんべいである。初めて食べるがなつかしい味である。

 
 

どこを切っても絵になる町

 豊後国臼杵、古くは南蛮貿易の港として賑わい、江戸時代は臼杵藩の城下町として発展した。

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 臼杵川の河口の港に近い地域は、江戸時代には大いに賑わった商人町である。町八町と呼ばれた八つの町には、古い町並みと路地裏の風景が残っている。

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 商人町の背後の丘は二王座と呼ばれる地域である。二王座の迷路のような坂道を上っていくと、賑やかな商人町から離れ、急に周囲が静かになる。

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 この辺りは武家町であり、寺院も密集している。

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 石畳の坂道、迷路のような路地、古い町並み、時折り見える眼下の風景、どこを切っても絵になる町である。

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 坂と寺と迷路のような路地の町といえば尾道がすぐに思い浮かぶ。尾道ほど極端な急坂と細い路地ではないが、二つの町には共通する空気が流れている。尾道三部作で知られる大林宣彦監督は臼杵でも映画を撮影している。

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 この町を最後にしてここからフェリーに乗り帰路に就く予定である。最後の町という思いのせいか、降り出した雨のせいか、それとも臼杵の町の持つ力なのか、目に入る風景がどれも美しく見え、感傷的な気持ちになる。

 
 

大分城下の玄関口

 大分市郊外の戸次の町並みへ。

 かつては戸次市村と呼ばれたこの地は、古くから交通の要衝であった。

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 町並みの中心は、江戸時代には庄屋であった帆足家の邸宅である。

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 九州といえば焼酎であるが、帆足家は造り酒屋でもあった。

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 現在は廃業してしまい内部を見学することができる。

 
 

温泉都市の共同湯

 温泉街というと山の中の鄙びた町を連想してしまうが、別府は大都市である。人口12万人の大分県第二の都市であり、県庁所在地の大分市とも隣接している。駅前は温泉町としての雰囲気ではなく、地方の都市そのものである。

 駅からは少し離れた旧別府港の周辺が、かつての歓楽街の中心地である。

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 共同湯の竹瓦温泉もこのエリアにある。

 竹瓦温泉は昭和13年建設の木造二階建ての共同湯であり、現在は市営である。周囲の古びたビル群に埋もれているが、ずいぶんと立派な共同湯である。

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 入浴料は100円と格安で、周囲とは隔絶された鄙びた気分に浸ることができる。

 
 

いまは石垣と土塀ばかり

 江戸時代、大分県の豊後地方には小藩が入り組んで林立していた。日出藩もそうした小藩の中のひとつである。

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 日出藩の中心地である日出の町は、別府湾に突き出すように築かれた石垣の上に立つ暘谷城の城下町である。

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 城といっても小さなものであり、その周りの武家屋敷街も小規模なものであった。

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 観光協会の駐車場に車を止めると、中から協会の方が出てきて、熱心に観光コースの説明をしてくれた。訪れる人は多くないのであろう。気持ちはわからなくもない。

 
 

坂の城下町

 杵築藩の城下町、杵築へ。

 全国に残る城下町は、その多くが碁盤の目状の町割りが特徴である。しかし杵築は北台と南台という二つの向かい合った台地の上に武家屋敷街がある。

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 どちらかの武家町から、もう片方へ行くには、いったん坂を下って谷底まで降り、反対側の台地に登らなければならない。

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 一般に武家町は平らな土地にあることが多いが、杵築では坂道の両側にも武家屋敷の土塀が連なる光景が見られる。

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 台地の上の高台は閑静な武家屋敷街だった。

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 北台と南台の二つの武家町の間の細長い谷底は商人町である。

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 こちらは古い町並みは壊されて中心道路が拡幅され、その両側に白壁造りの建物が移築や新築された「真新しい古い町並み」であった。

 
 

「からあげ」と「とり天」

 大分市内を走行中にからあげ専門店を発見! さっそく車を停めて寄り道することにした。

 メニューを見ると、「醤油からあげ」と「塩からあげ」がある。どちらが一般的なんだろう。他にも「ズリカラ」とか「コリカラ」なんていう意味不明のからあげもあるし、とり天もチキン南蛮もある。どれも値段も安い。

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 店の横にテーブルがあって外で食べられるようになっていた。からあげ買ってその場で食べるのは、大分県では一般的なのだろうか。そういえばケンタッキーフライドチキンの大分での店舗展開はどうなっているのだろう。

 夕食を食べたあとだし、いろいろ迷っていたのだけど、いざ注文しようとしたら、もう閉店時間だとのこと。これだから地方都市は…ブツブツ。

 気を取り直して、翌日の昼食はとり天定食を食べる。

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 からあげとは異なり、まさに鶏肉の天ぷらである。からしと甘酸っぱいタレで食べるようだ。さくさくと食べられるが、衣が意外に油を吸っていて、食べ過ぎるときついかもしれない。

 
 

かえ玉について考える

 博多ラーメンといえば、だれもがすぐに白濁とんこつスープと極細麺のラーメンを思い描くだろう。いまや完全全国区のご当地ラーメンであり、日本全国どこでも、とまでは言えないかもしれないが、ほとんどの地域で食べることができる。しかし博多スタイルそのままで食べさせる店は多くはない。

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 博多ラーメンを標榜するなら、テーブルには、紅ショウガ、白ゴマ、辛子高菜などが置かれていて、自分で味を決められるべきである。私は辛子高菜をどばっと入れて食べるのが好みである。
 また、麺は針金のような極細麺で、かえ玉を注文したら即座に提供されるべきである。のびやすい麺なので大盛りなどは論外である。

 ところで、この、かえ玉という方式だけを取り入れた博多ラーメンではないラーメン屋が存在する。太くてゆでるのに時間がかかるのに、大盛りはなくて、かえ玉のみのラーメン屋は許しがたい。かえ玉を頼んでから、残ったスープがどんどん冷めていくのをながめつつ、麺がゆで上がるのを待ち続けるほど苦痛なことはない。いったいなぜ、かえ玉なのか、店主に問い詰めたい気分にさせられる。

 
 

ごまうどん

 元祖ごまうどんの店、まつや食堂にて、竹田名物ごまうどんを食す。

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 すりゴマ入りの汁なのだけど、ゴマの風味はほのかにするかなぁという程度。そのかわりに鰹節が強いです。すりゴマがドロドロするくらい入っている担担麺なんかを食べなれていると、ちょっと物足りないですが、あっさりと素朴な味わいでした。

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 うどんは西日本特有のふわふわした麺。北関東や吉田のうどんが好きな私にはたよりないうどんです。昔は讃岐うどんとか大好きだったんだけどなぁ。

 
 

難攻不落の城

 阿蘇から続く九州中央東部の山塊の中、1000m級の山々に囲まれた小さな盆地に竹田の町はある。切り立った崖に周囲を取り囲まれており、町に入るには必ずトンネルを通らなくてはならないような土地である。

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 戦国時代、薩摩の島津氏の侵攻に対して、この地を治める大名志賀氏は、わずかの兵とともに断崖絶壁の上に建つ岡城に立てこもり、これを死守する。これにより竹田の岡城は難攻不落の城として知られることになる。

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 現在の市街は、江戸時代に入封した岡藩主中川氏により建設された。京に模して碁盤の目状に城下町を区画し、近隣の集落から商人を移住させて住まわせた。以後、竹田の町は山の中の小藩である岡藩の城下町として明治維新まで続く。

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 西南の役では薩摩軍に占拠され、官軍との激しい攻防戦の舞台となってしまう。この攻防戦での焼き討ちと、昭和22年の大火によって古い町並みの多くは失われてしまったという。しかし町を歩くと、そのような歴史を感じさせない程度に、漆喰塗りの商家や武家屋敷の門塀がよく残っている。

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 盆地という限られた狭い土地であり、周辺の都市とは隔絶された地でもあるので、大きく開発されることも無く、昔の姿を今に伝えている。

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 竹田に残されているのは古い町並みの外観だけではない。町に流れる空気や人々のたたずまいが、古き良き時代を彷彿とさせる。気持ちのよい町であった。

 
 

九州の山道

 九州内の道路網は整備されているとはいいがたい。特に東部は高速道路も通っておらず、狭い山道を走らなければいけないこともあり、町から町へと移動するのに、直線距離から予想したよりかなり多目の時間がかかる。

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 だが、そんな途中で思わぬ風景に車を止めることもある。

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 地域の方々には不便だろうけど、この不便さがドライブのおもしろさでもある。

 
 

神々の地の棚田

 高千穂の町外れに美しい棚田の風景があった。

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 九州は古くから文明の栄えた地であり、山が多く平地が少ないため、多くの美しい棚田がみられる。

 
 

この世にある天界

 天照大神がスサノオの狼藉に怒り、天岩戸に閉じこもってしまったため、この世は闇になってしまった。八百万の神々は相談し、天岩戸の前で楽しそうに宴会をすることにした。天照大神がなにごとかと、天岩戸の扉を開けて外の様子をうかがったところで、怪力の神が天照大神の手を取り、外へと引きずり出した。そうして世界に光がもどった。

 古事記の中でもよく知られるエピソードである。この天岩戸が高千穂にあるのだ。

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 天岩戸神社の御神体は天岩戸である。境内には本殿はなく拝殿のみであり、そこから岩戸川の対岸の天岩戸を拝む構造になっている。天岩戸がある対岸は神域であり禁足地であるため、間近で天岩戸を見ることはできない。

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 天岩戸神社から岩戸川沿いに少し遡ると、天安河原にたどり着く。天安河原とは、天照大神が天岩戸に引きこもったとき、八百万の神々が集まり相談したところである。

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 さて、ここで、矛盾した点が出てくる。天照の孫=天孫が、人間界を統治するために降臨したのが高千穂である。天照大神が天岩戸に隠れたのは、天上界である高天原での出来事だ。人間界である高千穂に天上界である高天原があってはいけないのだ。神話の世界の話だからといってしまうと元も子もない。神話の世界の岩が現実にあるのはもっとおかしいことになる。神話といえども現実世界のなにがしかの出来事の反映であるはずだ。

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 天岩戸の場所としては諸説があって、高千穂以外にも天岩戸とされる岩はあるらしい。しかし、個人的にはまだ発見されていないのではないかと思う。高千穂より北の九州内のどこかに、その地が眠っているのではないだろうか。

 
 

天孫降臨の地

 天照大神の孫のニニギノミコトが、人間界である葦原中国の統治のために、神々の住む高天原をはなれて降臨した地が高千穂の峰々である。

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 高千穂には天上界である高天原を遙拝したとされる場所もある。

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 ただの田舎町も日本古代史フィルターをかけてみていると、由緒ある町に見えてくるから不思議だ。

 
 

だご

 「だご」とは「だんご」のことであり、「だご汁」というのは熊本県の郷土料理で、簡単に言ってしまえば「すいとん」である。

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 すいとん風ではなく、細長く延ばした太いきしめん状の「だご」もある。お土産に売っているのは、こちらの麺状のものである。

 大分県だと呼び名が「だんご汁」になるようだ。

 
 

阿蘇観光

 阿蘇の外輪山からカルデラ内部を眺めたとき、その風景に戸惑うだろう。噴火でできたカルデラの内部に人が住み着き、田を耕し、町ができて、鉄道が走っている。いくつものゴルフ場も存在する。

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 中心部に近づくと草原が広がっている。草千里以外にも草原は広がっており、多くは牧草地として使用されている。

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 それは日本離れした雄大さである。

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 阿蘇山中岳は現在も活動を続ける活火山である。阿蘇山の噴火は予想しやすいため、安全な時期は火口のすぐ近くまで行くことができる。

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 周辺の二酸化硫黄の濃度は高く、風向きによって立ち入り区域が制限されている。

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 現在の火口の周囲には、かつて噴火し、埋まってしまった以前の火口もある。

 
 

阿蘇の朝

 深夜に阿蘇の大観峰に到着し、夜景を見下ろす場所に車を停めて朝を待つ。

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 日が昇り、阿蘇五岳とカルデラが徐々にその姿を現してきた。

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 雲が多く、靄が出ていたのが残念であった。

 
 

馬肉食

 最近ではよく知られているが、馬肉は健康食である。高タンパク低カロリーであり、ビタミンやミネラルも豊富である。しかし、牛や豚に比べて食用部位が少なく、生産コストが高くつくため家畜としては普及しなかった。逆にいえば、牛肉や豚肉は体に悪いが、安く生産できるから広く食べられているともいえる。

 馬を食用にするかどうかでは、世界的に見ても日本国内でも、地域による抵抗感の差が大きい。国内では、熊本、伊那、会津などが馬肉食地域である。

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 馬肉というと馬刺しが一般的である。牛の油は人間の体温では溶けないため生食には向かないが、馬の油は融点が低く、人肌でも十分溶けるので、生で食べるには理に適った肉である。

 獣肉の生産消費が禁忌であった時代から食べられているため、本来は様々な料理があるようである。肉以外にも内臓料理もある。

 
 

1800年続く温泉

 九州には温泉が多い、著名な温泉、秘湯など数多くある。杖立温泉も、そんな温泉街のひとつである。

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 応神天皇の産湯に使われたのが開湯といわれる。実に弥生時代にまで歴史を遡る温泉なのである。

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 杖をついて湯治にやってきた病人も、杖を立てかけたままにして帰るほど効能があるということで杖立温泉と呼ばれるようになった。

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 杖立川の両岸に、山肌にへばりつくようにして温泉街が広がっている。

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 温泉街の裏側は迷路のような路地と坂である。適当に歩いていると、共同湯や神社に行き着いたり、思わぬところへ出たりする。

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 町のあちらこちらから、温泉の白煙が上がっていた。

 
 

日田温泉郷

 日田駅を挟んで北側に豆田町があり、南側の三隈川沿いには隈町がある。現在ではどちらも日田市の一部だが、江戸時代にはそれぞれ独立した町であった。

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 隈町は三隈川の舟運で発展した商人町であった。その名残は町の中に見つけることができるが、いまでは日田温泉郷として温泉街の中に飲み込まれている。

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 三隈川沿いには老舗の温泉旅館が並ぶ。

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 温泉街にはところどころに古い町並みが残っている。

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 訪れる人も多くはなく、寂れた印象もあるが、落ち着いた雰囲気の温泉街であった。

 
 

西国の中心地

 大分県日田市豆田町、天領の町として知られるところである。

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 江戸時代に天領は数多くあったが、郡代が置かれたのは、関東、飛騨、美濃、西国の四ヶ所のみであり、このうちの西国郡代が置かれたのが日田豆田町であったのだ。

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 豆田は交通の要衝でもあり、周辺の物資の集積地であった。また幕府の公用金を運用する掛屋が莫大な富を蓄えた。江戸時代を通じて、豆田は政治経済の中心地として繁栄する。

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 明治維新以後、特権を失った豆田の町は急速に衰退する。開発からも逃れ、江戸時代の町割りを今に残すことになった。

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 現代の豆田は、多くの町家が土産物屋などに改装され、観光客で賑わう観光地となっている。

 
 

棚田と彼岸花

 浮羽町新川地区は山々に囲まれた地であり、平地は少なく、いたるところに棚田が見られる。

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 収穫期のこの時期は彼岸花の季節でもある。新川地区の棚田では畦道に彼岸花が咲き誇っていた。

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 新川地区の棚田の中でも最大規模のものが、つづら棚田である。

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 棚田100選にも選ばれているこの棚田と彼岸花の風景を求めて、この日は多くの人が訪れていた。

 
 

ふるさとの風景

 福岡県うきは市浮羽町の中心部から隈上川を遡り、合所ダムを過ぎた辺りから周囲の風景は農村地帯となってくる。ダム湖の先の新川地区は新川沿いの谷間に開けた農村である。

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 そこからさらに新川を遡ると田篭地区に入る。

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 田篭地区の奥地の中村集落まで登っていった。町の風景とは隔絶された、古き良き日本の農村である。

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 中村集落の手前の日森園集落には、重要文化財の平川家がある。くど造りという筑後川流域に特徴的な形式の民家である。

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 平川家は重要文化財ではあるが、現在も住居として使われており、最近屋根を葺き替えたのか、真新しい茅葺屋根であった。

 
 

白壁土蔵造りの町並み

 福岡県、筑後吉井へ。豊後街道の宿場町として、また筑後川の舟運による物資の集積地として繁栄した町である。

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 吉井も何度もの大火を経験して、現在見られるような白壁土蔵造りの町並みになった。現存するものは明治初期の建設が多いそうである。

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 豊後街道は現在は国道であるが、その両側に土蔵造りの町並みが残されている。もともと国道にできるような広い街道であったこともあるが、国道建設時にも町並みが取り壊されることもなく現在まで残されている。

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 街道を離れて町の中に入ると、水路が張り巡らされている。これらは生活用水でもあり、また、筑後川につながる物資の輸送路でもあった。

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 旧松田家と旧籠田家の二軒の土蔵造り民家は、現在は市の所有となっており、無料で内部を公開している。中に入ると御老人が熱心に説明をしてくれた。ホスピタリティの熱い土地のようである。

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 観光用の広大な駐車場も無料であった。吉井では、経済活動とは無関係に、町の人々の町並み保存に対する熱意と故郷に対する自負が感じられた。

 
 

山の中の小さな城下町

 福岡県の秋月へ。

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 もともとは中世に秋月氏の本拠地として秋月城が築かれたが、江戸時代には福岡藩に組み込まれ、後に秋月藩として福岡藩の支藩となる。

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 秋月藩という藩名が、あまり知られていないことからもわかるように、山の中の小さな城下町である。

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 秋月街道沿いは商人町である。いくつかの山道が秋月で交わり、秋月は交通の要衝でもあったのだ。

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 筑前の小京都と呼ばれる地であり、周囲の景観に溶け込んだ静かで落ち着いた城下町であった。

 
 

田園の朝

 九州初日の朝は目覚めると快晴だった。

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 朝日を浴びて稲穂が黄金色に輝いていた。

 
 

焼きカレー

 門司港名物という「焼きカレー」を食べる。

 どんなものか全く知らなかったのだが…、これは…カレードリアですよね…。

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 どうしてこれが門司港名物になったのだろうか?

 
 

自称レトロ地区

 門司港駅をでた辺りは「門司港レトロ」と呼ばれる地区である。

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 歴史的な建築物もなくはないようだが、レトロ調に整備された地区である。

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 歴史の町並みというよりは、おしゃれスポットでした。

 
 

木造駅舎

 明治24年開設の門司駅。

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 九州の鉄道の始発駅であり、関門連絡船で九州へ渡った旅客は、ここで九州各地へ向かう列車に乗り継いだのである。

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 しかし、関門トンネルが開通すると、本州との接続はここより先の駅となり、本州-九州間の列車の運行から外れた枝線の終点になってしまう。そして関門トンネルの接続駅が新たに門司駅とされ、こちらは門司港駅と改称されてしまう。

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 現存する門司港駅は大正3年に初代の駅舎から移転開業した木造駅舎である。

 
 

平家滅亡の地

 壇ノ浦といえば、栄華を誇った平家滅亡の地として知らぬ人はいないであろう。

 その壇ノ浦までやってきた。橋を渡ればそこは九州だ。

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 東京を出てから、休憩、仮眠もあわせて実に24時間近くかかった。高速道路1,000円の影響である。もう少しお金を払ってもよいから、もっと早く着きたかったのだが…。

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 近畿地方を過ぎてからはあまり渋滞箇所はなかったが、中国地方を通り抜けて、壇ノ浦までたどり着くのは長い距離であった。都落ちした平氏も、この長い距離を敗走しつづけてここまで来たのだ。

 この地で滅亡した平家の残党は散り散りに山中に逃げ隠れ、平家落人伝説の集落として現代まで存続している。

 
 

松之山温泉郷をぶらぶらと歩く

 少し時間があったので、松之山温泉郷を散歩。ちょうど大地の芸術祭の会期と重なっていたため、若い人たちが多かった。

 この大地の芸術祭とは、十日町市と津南町の広大な地域を会場とした芸術祭である。自然の風景や村の暮らしの中にアート作品が展示される、なかなかにおもしろい試みである。

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 温泉郷の中心にある公共の温泉、鷹の湯。温泉にはただ入るだけで、泉質がどうだこうだとか関知しない私でもわかるくらい、ここのお湯はすばらしい。

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 町から少し外れたところには、木造三階建ての温泉旅館、凌雲閣がある。ここも、いつか泊まってみたい宿のひとつである。

 
 

林の中の露天風呂

 松之山温泉郷の中心地からは大きく離れた山の中に、町営温泉の翠の湯はある。冬季は閉鎖されてしまう山道を通っていくため、この温泉も冬場は閉鎖されている。

 道から少し入ったところに、かなり古めかしい温泉旅館、植木屋がある。露天風呂は町営だが、管理は植木屋でしていて、ここで料金を払うのだ。受付のご老人に、露天風呂はどこにあるのか訪ねると、林の中だとおしえてくれた。

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 林の中に入っていくと、掘っ立て小屋みたいな露天風呂があった。男女ひとつの浴槽で、真ん中で仕切られてふたつに分けられているだけの簡素なものである。

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 お湯は、日本三大薬湯松之山温泉の湯である。入浴後は体の芯から温まり、いつもでもポカポカしていた。

 
 

棚田のロケハン

 棚田の写真を撮るなら、やはり水の張られた季節に限る。朝靄の中で日の光に輝く棚田は別世界の美しさだ。そうはいってもなかなかその時期に訪れることもできず、今回は収穫期の棚田を撮影に行った。それに、朝焼けの写真を撮るなら、暗い中を移動するので事前の下見は必要になる。

 訪れたのは新潟県十日町市の松代である。

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 棚田マップなるものが配布されており、主だった棚田の場所と撮影ポイントまで記されていた。便利だけど探す楽しみがなくなってしまったようである。当然、有名な場所にはカメラを持った方々がたくさんいらっしゃいました。

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 棚田を観光に訪れる人が増えるにつれ、マナーの悪さが目立つようである。様々に注意を促がす看板が立てられていた。なかには「ウンコ・ゴミは持ち帰れ」というものまで…。

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 棚田を見に来られても地元にはほとんど利益はないだろうし、設置したトイレの処分費で持ち出しになっているらしい。地元にしてみれば迷惑なだけである。

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 自分も写真を撮るのであるが、撮影マナーについては気をつかっているつもりである。しかし昨今のカメラを持った一部の方々、特に年配の方々の傍若無人は目に余るものがある。周りが見えなくなっているし、注意すれば逆切れする。徒党を組んでいるとたちが悪い。風景写真は映像で綴る詩であるから、そんな心持ではいいものは撮れないぞ! 地元の方々も、さぞうんざりであろう。

 美しい棚田を見に行ったのに、愚痴っぽくなって帰ってきてしまった。

 
 

実りの季節

 中越地方の山間部は、豪雪地帯であり、また、米どころでもある。

 街道沿いを車で走ると普通の町に見えるようなところでも、裏側に回ると水田が広がっている。

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 柏崎市高柳町の門出もそんな集落のひとつである。街道に沿って郵便局や小学校、公民館などが並び、周辺の集落に比較すると「街」であるが、その裏手はなつかしい日本の農村であった。

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 収穫をひかえて水田が黄金色に輝くこの季節が、農村集落が一年で最も幸福な色に包まれるときである。

 
 

茅葺環状集落

 新潟県中越地方の荻ノ島へ。

 ここは茅葺屋根の民家が残る農村であり、環状集落として知られるところでもある。

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 環状集落というと縄文時代の遺跡が思い浮かぶ。縄文時代の集落は、先祖の墓や祭祀の行われる広場を中心にして、その周囲に同心円を描くように住居があった。

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 現代にも存続する環状集落は縄文時代とは異なり農村である。水田の周りに、水田を取り囲むようにして農家が並んでいる。

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 荻ノ島の環状集落は、集落の共通財産である水田を外敵から守り、また、それぞれの水田に平等に水や日光が行き渡るように計画された、地形に合わせた合理的な集落形態である。

 
 

夏みかん菓子

 萩の城下町、武家屋敷の白壁の塀が延々と続くその内側には、夏みかんの木が数多く植えられている。

 萩ではその夏みかんを用いた菓子が作られる。その中で、見た目のインパクトにより、よく知られているのが、夏みかんの丸漬である。

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 夏みかんの皮を残して中身をくりぬき、中に羊羹を詰めて砂糖漬けにしたものである。砂糖漬けにしてあるとはいえ、夏みかんの皮を食べるのだから、それなりに苦味がある。

 ところで、くりぬいた中身はどうしているのだろうか?

 
 

ゆべし

 備中高梁の町中を流れる紺屋川沿いの老舗和菓子店、遠州堂にて、名産品の「ゆべし」を買い求める。

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 この遠州堂で販売しているのは「ゆべし」のみである。商品のバリエーションとしては入り数が異なる数種類の箱入りの「ゆべし」があるだけだ。それだけで代々、店を守り続けてきたのである。

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 「ゆべし」は漢字で書くと「柚餅子」である。その名が表すとおり、ユズの風味の餅菓子である。

 ほのかなユズの香りと上品な甘さの銘菓である。

 
 

メガソースカツ丼

 中央道上り諏訪湖SAのメガメニューの中にメガソースカツ丼を発見!

 ソースカツ丼好きとしては食べぬわけにはいくまい。そう思い注文したメガソースカツ丼にはトンカツが二枚のっていた。見ただけで健康に悪そうである。

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 ソースはあま~い味付けだった。量としてはこれくらいなら食べられるけど、後半は味に飽きてしまった。

 
 

神の湯

 奥飛騨温泉郷の平湯温泉、ここは上高地や乗鞍岳への観光基地である。どちらもマイカー規制されており、ここで車を停めて公共交通機関やタクシーへ乗り換えることになる。

 その平湯温泉の温泉街を抜けてしばらく山の中に入ったところに、平湯温泉発祥の地でもある神の湯がある。

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 入口は鄙びた山中の観光地のような様相であり、そこを過ぎて少し行くと露天風呂がある。脱衣場も簡素であり、昨今流行の日帰り温泉施設にはない味わいであった。

 
 

匠の建築

 喧騒の三町地区を離れ、下二之町大新町へ。こちらも三町地区とは別に重伝建に指定されている町並みであるが、ここまで来る観光客は少ない。なので比較的ゆっくりと見ることができる。

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 ここでは、吉島家と日下部家の二件の町家の内部を見学することができる。

 町家といっても明治期に建てられたものであり、幕府の禁制もなく、持てる財力を傾注して自由に建設することができた。そのため非常に豪壮なつくりになっている。

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 梁と柱の木組みは、高く力強い空間を形成している。

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 各部屋は繊細で優美である。

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 どちらも内部では熱心に見学している外国人を何人も見かけた。おそらくガイドブックにも載り、日本を旅行する旅行者にはよく知られているのだろう。しかし三町の賑わいと比較して、日本人で訪れる人はあまりにも少数である。

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 こういうことはあまり書きたくないのだが、日本人は日本の良さを見失ってしまっているかもしれない。歴史や伝統、匠の技への敬意といったものよりも、買うことと食べることに集中してしまう。どこの歴史的観光地へ行っても、多かれ少なかれ同じ現象を目にする。そして地元もその方が儲かる。マスメディアで取り上げられるのも、多くは買い物と食べ物の情報である。その他は温泉くらいだ。

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 下二之町の町並みは、客寄せのために古いものを残すのではなく、代々受け継いだ遺産と伝統に誇りを持ち、それを継承していこうという姿が見え、清々しい気分になれた。

 
 

町並み鑑賞ブーム到来か!?

 飛騨高山の町並みを見に、伝統的建造物群保存地区である三町地区へ。細い通りの両側に町家がどこまでも連なる趣のある地区であった。

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 が、通りは人であふれていた。狭い道に人がぎっしりなのである。みんな歴史の町並みを観賞しに来ているのかといえば、そうでもなさそうである。高山はいわゆる観光地なのである。

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 そして、町家のほとんどすべてはそれらの人々を当てにした店舗に改装されてしまっている。お土産屋はまだましである。町並みにも高山にも関係ないようなものを売る店が数多い。なぜ、これらの店が増えるかというと、これらの店で消費する人々が多いからである。しかしこれでいいのだろうか?

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 ここまで来ると後戻りするのは難しいだろう。私の中で高山は、倉敷と並ぶ残念な町並みである。

 
 

飛騨高山の郷土料理

 飛騨高山の郷土料理といえば、やはり朴葉味噌がよく知られている。

 もともとは自家製の味噌にネギや山菜、キノコを混ぜて朴の葉にのせて焼き、ご飯とともに食べる焼き味噌であるが、郷土料理として観光向けに供されるものは、飛騨牛入りなどもあり豪華である。

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 山深い飛騨では、かつては山菜やキノコ、芋類が日常食であった。

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 中央の豆腐はこも豆腐という飛騨特産の豆腐である。すのこに巻いて水切りしているため固く、穴が開いていて煮物に使うと味がしみこみやすい。

 
 

ヴォーリズ建築を訪ねて

 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。アメリカ人であり、英語教師として明治後期に来日し、滋賀県立商業学校に赴任する。後に建築事務所を起こし、数々の西洋建築の設計にたずさわる。
 代表的な建築物としては、明治学院大学礼拝堂、神戸女学院大学図書館、大丸心斎橋店などがあげられるが、1000以上の西洋建築を設計したといわれており、この他にも代表作とされるものは多い。

 ヴォーリズの設計する建築物は、奇をてらったようなものではなく、「建築物の品格は人間の人格のごとく、その外観よりもむしろその内容にある」という言葉通りの建築物である。

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 日本女性と結婚したヴォーリズは近江八幡に永住する。近江八幡にはヴォーリズの設計した数棟の西洋建築が残されている。いずれも暖かみのある素朴な小規模のものであり、町の景観に自然と溶け込んでいた。

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 建築家としての面がよく知られるヴォーリズであるが、キリスト教の布教に努め、社会奉仕活動に積極的であり、また近江兄弟社を設立してメンソレータムを輸入する実業家でもあった。

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 ヴォーリズは第二次世界大戦中に日本に帰化する。あまり歴史の表面には出てこないが、終戦後は昭和天皇とマッカーサーの会談の実現に奔走する。ある意味、日本の恩人であるかもしれない。

 没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章する

 
 

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