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ヤマレコ

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2009年12月の25件の記事

The Best of the Best 2009

 2009年も残すところあとわずか、今年一年で訪れた場所の中から印象深い地を選んでみた。最初に簡単に選んだら膨大な数になってしまったので、その中から選び抜いた厳選地20ヶ所である。

1.群馬県南牧村砥沢
 いまにも崩れそうな町並み。数年前に撮影された写真と比べたら建物が減っていた

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どこまで行っても宿場町

 東海道は他の街道と比べて、あまり宿場町が残っていない。関東と関西を結ぶ日本の大動脈であり、街道は拡幅され、町も開発されてしまっている。

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 三重県の関宿は東海道の中で数少ない、宿場町の町並みが現存する場所である。

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 関という町の名は、古代三関のひとつである伊勢鈴鹿の関が置かれたことからついたといわれる。この地は古代より交通の要衝であったのだ。

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 江戸時代に東海道の宿駅として整備された。

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 東西に1.8キロも続く宿場町の両側に、往時を偲ばせる町並みが並ぶ。

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 宿場の東の追分からは伊勢別街道が、西の追分からは奈良へ向かう大和街道が分岐している。

 
 

つぶやいてみる

Twitter はじめてみました。
これで旅行中に「古い町並みなう」とかつぶやけますね。

 

そうめんの端っこ

 手延べそうめんを棒につるして乾燥させ、そうめんを切り分けた残りの、棒に引っかかっていた部分が「そうめん節」である。曲がった部分は幅が広く、そうめんを切り分けた先っぽは細い。形状から「バチ」や「かんざし」と呼ばれることもある。

 そういうものがあるとは知っていても、なかなか目にする機会がなかったのだが、関西地方で販売されているのを発見した。さすが西日本はそうめんの本場である。

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 食べ方がよくわからないのだが、パッケージには味噌汁、スープ、サラダ、雑炊などにと書いてある。また、そのまま油で揚げて食べてもいいようだ。

 とりあえず鍋に入れて食べてみた。芯が残るような固めのゆで方ではなく、しっかりゆでたほうがいい。そうめんとは異なる弾力のある食感である。うっすらと塩味が残っていた。

 
 

老舗の一本

 国道沿いの道の駅はたいへん混雑していたが、古い町並みを見に来る人はほとんどいなく、大宇陀の町の中は閑散としていた。日曜日だったが開いている店も多く、様々な老舗をのぞきながら歩くと、一軒の店で声をかけられた。
 「うちは代々これ一本です」

 その一本とは奈良漬である。試食したらたいそううまかったので瓜の奈良漬を購入。

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 道の駅でも同じ奈良漬を販売していた。町並みの中の店舗まで買いに来る人は少ないが、道の駅は集客力があって便利に買い物ができるので、地域の商品の販売には適しているのだろう。

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 しっかり漬かっているので、厚く切ると味が濃すぎるかもしれない。薄切りにした方がおいしく食べられる。家の者は奈良漬があまり好きではないのだが、これはおいしいといって食べていた。

 
 

葛と薬草の町

 柿本人麻呂が歌に詠んだ大宇陀の地は、万葉の時代には阿騎野と呼ばれる原野であり、大和朝廷の狩猟場や薬草摘みの場であった。

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 中世末期に城下町として町が形成され、その後江戸時代には天領となる。

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 南北に流れる宇田川沿いに町が発展した。

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 大和方面から来た道は大宇陀にて、伊勢へ向かう伊勢道と吉野へ向かう吉野道に分かれる。

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 大和へ運ばれる伊勢の海の幸も吉野の山の幸も大宇陀に集結するのだ。

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 地の利を生かして商家が発達した。

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 江戸時代に開かれた薬草園があり、大宇陀には薬舗も多かった。吉野葛を扱う老舗もある。葛切りに使われる葛も、もともとは薬草である。

 
 

山里の寿司

 紀伊半島山間部の郷土料理、柿の葉寿司を買い求める。

 一口大ににぎった酢飯に塩鯖の切り身をのせ、ひとつづつ柿の葉で包んで押しをかけた寿司である。

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 熊野灘の鯖が塩漬けにされて吉野に運ばれ、そこで生まれた食べ物だ。現代では鮭や鯛の柿の葉寿司もあるが、やっぱり鯖が一番旨い。

 
 

夢の跡

 五條の町並みを高架橋が横切っていた。こんなところを電車が走るのかと訝んだが、高架橋のところまで行ってわかった。これは五新線跡なのである。

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 五新線とは、奈良県の五條と和歌山県の新宮を結ぶ鉄道路線である。吉野山地を縦断して走り、その沿線の多くは吉野の山中である。

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 地元の熱い要望により戦前に建設が着工されたが、戦時中の資材不足で一時中断し、戦後再開されるも国鉄再建法施行により工事は凍結されてしまった。鉄道輸送の需要減や地域の人口減などにより採算が見込めないため、結局一度も列車が走ることはなく鉄道計画は断念されてしまった。

 現在ではバス路線が鉄道計画に取って代わっているが、赤字路線であり便数も少ない。一部完成していた鉄道路はバス専用道として活用されている。

 
 

古都の南の交通の要衝

 奈良県南部の吉野地域の中心地は五條である。

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 吉野川沿岸に位置する五條は水上交通の要衝であり、また盆地であるため四方からの街道がここに集まる陸上交通の要でもあった。

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 北は大和や河内へ向かう街道、南の熊野へと向かう街道、東は伊勢街道、西へは紀州街道が五條を起点として延びている。

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 しかし、これらの街道は国道となり拡幅されてしまったため、古い町並みの多くは失われてしまった。

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 町並みが連続して残るのは新町通りである。これは江戸時代初期に建設された新町村と二見を結ぶ道である。

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 五條中心部から二見まで、延々1km以上も見事な町並みが続いていた。

 
 

大阪府内に残る寺内町

 近鉄富田林駅前の雑居ビル街や商店街を抜けると周囲の様子が一変する。駅から徒歩数分の距離だが、ここはかつての寺内町である。

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 富田林の寺内町が形成される前、この辺りは石川の河岸段丘上に広がる荒地であった。

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 その荒地を興正寺第14世、証秀上人が買い取り、近隣の名主8人とともに興正寺別院を中心とした寺内町を建設する。

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 碁盤の目状の町割りだが、縦横の道が交わる交差点では、わずかに道がずらされている。これは「あてまげ」と呼ばれ、外敵の侵入の際に町を見通しづらくする、防衛のための町割りである。

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 道幅も狭く、小型車一台が通るのが精一杯だ。寺内町の時代の道幅そのままである。

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 寺内町として住民が守られ、また川沿いでもあったため商業が発展したが、時代とともに衰退し、現在では開発から取り残された、ひっそりとした住宅街であった。

 
 

寺内町の栄枯盛衰

 町並みの種類のひとつに寺内町というものがある。

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 これは中世の動乱期に一向宗寺院を中心にして信者が居住し、周囲に濠をめぐらせて要塞化した町のことである。

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 奈良県橿原市の今井町は現存する最大で最良に保全された寺内町だ。

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 もともとは興福寺の荘園であったところへ、一向宗門徒の今井兵部が信者とともに移り住み、称念寺を中心とした寺内町を形成していくことになる。

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 当時は中世の動乱期であり、今井町も武装し要塞化していったが、信長に降伏して後は特権を認められた上で商業都市として発展していく。

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 現在の今井町は、約300m×600mの範囲内にある750軒ほどの家屋のうち、550軒ほどが江戸時代の建築であるそうだ。

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 この中には重要文化財が8軒あり、その他にも県や市の指定文化財となっているものがある。もう、圧倒的な密度なのだ。

 
 

五個荘の集落 2

 五個荘山本にも近江商人の屋敷町が残っている。

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 山本は金堂や川並とは中山道をはさんで反対側の集落である。

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 ここまで訪れる人はあまりなく、町はひっそりとしていた。

 
 

五個荘の集落

 近江商人の出身地である五個荘にはいくつもの集落がある。そのなかでは五個荘金堂が有名であるが、その他にも近江商人屋敷の密集する集落がある。

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 そうしたなかのひとつが五個荘川並である。

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 川並は金堂地区のすぐ隣にある。

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 金堂に比べれば集落の規模は小さいが、農村地区としては不釣り合いなほど立派な屋敷が並んでいる。

 
 

近江商人の故郷

 近江商人の出身地としては近江八幡が良く知られているが、その他の町からも近江商人と呼ばれる商売人は輩出されている。

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 そうした近江商人の出身地のひとつが五個荘である。五個荘出身の近江商人は、他の地域に遅れて江戸後期より活躍した。この地域は農村であり、五個荘の商人は農業のかたわら行商もしたようである。

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 五個荘の金堂には近江商人の屋敷が並び、町の中には堀がめぐらされている。

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 しかし周囲は農村であり、農村地帯の中に突如としてこのような立派な屋敷街が出現しているのである。

 
 

清流ながるる宿場町

 中山道近江路の宿場町、醒井へ。

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 宿場の中を流れる地蔵川には、清流でしか生息しないハリヨや梅花藻が見られるそうである。

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 訪れたのは秋の終わりの静かな日であったが、川沿いに桜が咲く季節はさぞ華やかであろう。

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 地蔵川にかかる橋のすぐ近くで、トタンで覆われてしまっているが、茅葺のスーパーが現役で営業していた。

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 宿場町時代の建築物はあまり残っていないようだが、静かで美しい町であった。

 
 

うだつの上がる町並み

 パッとしない人を指して「うだつが上がらない」というが、このうだつ(卯建)が見事に上がった町並みが岐阜県の美濃市にある。

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 うだつとは、延焼を防ぐため隣接する家と家との間に設けられた防火壁である。

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 美濃のうだつは、隣家と接する妻側の壁を上にのばして小屋根を設けた本卯建である。本来は防火目的であったのだが、時代が下るにつれて装飾的になっていく。

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 うだつを上げるには大金が必要であり、成功した旦那衆はこぞって立派なうだつを上げたのである。

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 美濃は、関が原の戦い後、金森氏によって開かれた城下町である。金森長近は町割りを整備し、長良川に河港をつくり、城下で和紙の市を開かせた。

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 これにより古くから盛んであった和紙作りがさらに発展し、町は隆盛したのであった。

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 こうして蓄えられた富が、いまに残る、うだつの上がる町並みを築いたのである。

 
 

東京の秘境

 谷底の下り集落で峰川沿いの道から分岐した道を登ると、すぐにつづら折りになって急斜面を登って行く。

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 程なくして、峰の柿干と呼ばれる場所に出る。ここは谷から山上の集落に行く途中で休憩した場所である。目指す集落はまだもう少し上の方だ。

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 さらに山道を登っていくと、開けた場所に出る。民家も数件かたまって在り、ここが峰集落の中心地だ。

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 道はまだ上へ向かって続いている。そのつづら折りの道を進むと、さらに上にも民家が点在している。

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 登っても登ってもまだ上に民家が見える。

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 同じく天空の村である奥集落は、峰谷川を挟んだ対岸の山上にある。峰集落から奥集落が見渡せるが、そこへたどり着くには、いったん山を下ってから、また山上へ登らなくてはならない。

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 最上部までたどり着いた。見晴らしのいい場所である。集落の最下部との高度差は、実に350メートルもある。

 
 

東京都内にある天空の村

 奥多摩湖に注ぐ峰谷川に沿って川沿いの道をさかのぼると、下り集落を過ぎた辺りからだんだんと高度が上がり、しばらくして道は川沿いを離れ、つづら折りになって山の上へと登って行く。

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 自動車で行ける道の終点が「奥」集落である。

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 つづら折りになって山を登ったところにある集落である。谷底の集落と比べるとかなり標高が高い。

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 山の斜面に集落があるため、集落の一番上と一番下でもかなりの高度差がある。

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 ほんとうに山上の世界である。空気が澄んで見晴らしがよく気持ちのよいところだ。

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 しかし、買い物するにも谷底まで下りなくてはならず、不便な場所であることは間違いない。なぜこのような山の上に集落ができたのか、不思議なところである。

 
 

奥多摩の集落を訪ねて

 東京都奥多摩町、そこは都心部から二時間足らずの距離であるが、同じ東京都だとは思えない山深い地である。

 奥多摩湖周辺の道路は、紅葉の季節だけは観光客で大渋滞する。しかし湖畔を走る道からそれて脇道に入ると、周囲が突然ひっそりとしてしまう。

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 奥多摩湖に注ぐ峰谷川に沿って、川をさかのぼって行く。

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 峰谷川の両側には山が迫っており、谷底を流れる渓流に沿って細い道が続いている。道沿いには「下り」集落があるが、深い谷底にあるため、日が差す時間は短い。

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 川岸の急峻な斜面に石垣を築いて平らな土地を確保している。

 
 

堂々たる長屋門の並ぶ集落

 筑波山西麓の上大島も筑波山参拝の街道沿いにできた集落である。農業のかたわら、参拝客相手の商売も行う集落であった。

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 上大島では多様で堂々たる長屋門を持つ御屋敷が街道沿いに並んでいる。

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 このような田舎町には不釣り合いなほど立派な長屋門が、上大島の町並みを形成している。

 
 

つくば道、二つ目の集落

 つくば道の二つ目の集落が臼井である。

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 ここからはいよいよ本格的な登り坂だ。

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 集落を上へと進むにつれて、道は嶮しく細くなってくる。

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 臼井集落の上のほうは、もうすっかり山村の雰囲気であった。

 
 

つくば道の街道集落

 北条から筑波山神社へと続くつくば道沿いには、趣のある街道集落が残っている。

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 北条を出て最初の集落が神郡である。

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 町並みの向こうに筑波山が見える。

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 神郡の町を抜けると、眼前には筑波山が優雅に広がっていた。

 
 

筑波山への表玄関

 筑波山南麓から筑波山神社の参道へとまっすぐにのびるつくば道。

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 その基点となる町が北条である。

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 北へ向かうつくば道とは直角の街道沿いが町の中心街だ。

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 東西を走る街道沿いには古い町並みがいくらか残っていた。

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 北条は、つくば道の入口にして、筑波山南麓の中心地でもある。

 
 

農村地帯の宿場集落

 筑波山東麓に位置する旧八郷町小幡。

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 この辺りは農村地帯である。

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 しかし、筑波山への参拝道筋にあたり、真壁方面への分岐点でもあったため、多くの旅人が行き交う町であった。

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 小幡では農業のかたわら、宿場としての商売もしていたようである。

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 農家の建物が、宿場町のように街道沿いに並んでいる。

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 街道沿いには農家だけではなく、町家も混在している。

 
 

筑波北麓の中心地

 真壁は筑波山北麓に位置する町である。のどかな山里の中にある真壁の町からは、筑波山を仰ぎ見ることができる。

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 中世に真壁氏の城下町として町の基礎が作られ、真壁氏が秋田へ移封されて後は、商業の中心地として賑わっていく。真壁やその周辺地域では木綿栽培が盛んであり、真壁にはその集積地として市が開かれた。

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 明治以降は花崗岩の産地として繁栄する。石材加工業は今に続く真壁の重要な産業である。

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 幹線道路からは大きく外れた交通の便が悪い場所にあるため、開発されることなく、のどかな雰囲気を残している。

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 真壁の町は広く、広範囲に古い町並みが残っている。さすがに全てが古い建物とはいかず、ところどころに近現代の建築が混じっている。

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 築後50年以上たった重要な建築物は、登録有形文化財として保護対象とすることができるが、真壁ではこの制度を積極的に活用しているようだ。町中には100以上の登録有形文化財がある。

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 のどかなのんびりとした真壁の町は、今後も大きく変わることなく存続していくにちがいない。

 
 

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