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薩摩の国の力

 薩摩の島津義弘は、関が原の戦いでは西軍についた。

 戦の帰趨が決し、なだれをうって敗走する西軍に、東軍が怒涛の追討ちをかける中、島津軍は敵の正面を突破しての退却を開始する。東軍の大将家康の間近を駆けぬけ退却する島津軍に、東軍の精鋭部隊が追撃する。追い詰められた島津軍は捨てがまりという戦法に出る。退却軍のしんがりを務める部隊がその場にとどまって戦い、大将を逃がすための時間をかせぐのである。最初の部隊が全滅したら、次の部隊が捨てがまりを行い、そして次、また次と、決死の覚悟で大将を逃がすのである。

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 千人以上いた島津軍の中で薩摩まで逃げ延びたのは約80人といわれる壮絶な退却戦であった。多くの側近が討死した。しかし大将の島津義弘は無事であり、追討の軍勢に大打撃を与えることもできた。

 関が原の戦いで西軍に加担した大名には、改易・減封の厳しい処分が下っている。しかし薩摩の島津氏だけは本領が安堵されているのだ。

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 もともと家康は島津を討伐するつもりで、九州諸大名に島津討伐の命を下している。薩摩では島津家総帥義久が自ら出陣し国境に兵を集結させるとともに、謝罪の使者を家康に送る。こうした硬軟とりまぜた外交交渉を二年ほど続け、見事に本領安堵の約束を勝ち取るのである。

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 これは義久、義弘の並外れてすぐれた資質によるものであるが、家康にも打算があった。薩摩に攻め込むというのは、江戸から遠くはなれて、島津のホームで戦うということである。相手はその勇猛さが朝鮮・明にまで聞こえている島津軍である。天下固めを着々と進める家康に、最後の一兵まで戦い抜く薩摩軍との泥沼のゲリラ戦を行う余裕はなかったであろう。

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 こうして薩摩は南九州の隔絶した地で、鎖国する日本の中でさらに鎖国をした厳重な警戒のもと、江戸時代を通じて存続するのである。

 薩摩に攻め込むことを考えたとき、家康は薩摩の外城を恐れたに違いない。土着の武士が住み着く麓集落が薩摩領内に113もあり、これが外城として防衛拠点になっているのだ。

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 こうした麓集落の中で最大規模のものが出水である。北部に位置しており防衛戦を戦っていたら最重要拠点であっただろう。

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 出水の町並みは、碁盤の目状の区画、掘削された街路、石垣と生垣の塀と、他の麓集落と変わらない景観である。

 出水はNHKの「篤姫」のロケ地にもなっているそうだ。

 
 

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